体験談

なにわ第78号

Contents

『お酒と私』摂津市断酒会 男性

はるかな遠景として、一枚の絵のようなものがあります。仕事を終えて、待ち合わせた奥さんと手をつないで、出かけていく人の後ろ姿。奥さんの手には買い物かご。高校生で、ビニールに印刷したものをひっつけないように順番に並べていくというアルバイト先のこと。別にお金がたくさんありそうでもなく、ただ仲の良さそうな二人。何故だかわかりませんが、その後ろ姿に僕はあこがれました。そうして、その絵を僕はずっと心の奥にしまってきました。今、何をするのも妻と一緒で、僕がかつて見たその風景を、さすがに手をつなぐことはありませんが、身近に感じています。まわりから見れば、あの時の光景と同じように見えるかもしれません。それをとても嬉しく思います。何ものにも代えがたい、大切なもののように思います。しかしながら、この二つの地点は曲がりくねった長い道でつながっています。曲がりくねってしまったのは、お酒を飲んでいたからです。処方の精神安定剤や眠剤を手放せなかったからです。初めの頃は、ゆるやかにカーブするだけの道でしたが、40 歳くらいの時に自殺未遂事件を起こして、大きく右に曲がったように思います。「もう信じることができない」と妻が子を連れて実家に帰りました。別れるという選択肢もありましたが、二人にはどうすれば解決してゆけるのか、その道筋は全く見えませんでした。
やがて新阿武山クリニックの平野先生にお会いして、左へと舵をきることになります。心底からしんどかったのか、先生に頼りすがるように処方の薬はその夜からやめました。デパスもレンドルミンもやめました。でもお酒の方は全くダメで、それから3年かかることになります。お酒の力は強く、少々のことでは勝てませんでした。飲んだり飲まなかったりする日が続きました。あるとき妻から「お酒をのむのなら、いっしょに生きてゆけない」と言われ、仕方なく断酒会に再入会することになりました。2〜3カ月して、僕が話す体験談に声を上げて泣く妻がいました。僕のために泣いてくれて、その時さらに左へと道が曲がった気がします。
いい事ばかりではありませんでした。しばらくすると、高校生の子が不登校となりました。妻と悩み苦しみました。不登校について勉強していくと、アメリカでは家庭教育が盛んで不登校という考え方がないということを知りました。公教育へのこだわりもなくなり、二人で応援し続けようと腹をくくることが出来たとき、子が学校へ行きました。あと一日休んだら留年という、せっぱつまったときのことでした。この勇気に驚きました。心配で子の行方をさがしまわったことが嘘みたいでした。不登校の原因が僕にあることはわかっていましたので、とても嬉しいことでした。それからも学校へ行くかどうか不安な日が続くわけですが、子を信じておれば大丈夫だと思えてきました。ゆっくりと大人になってゆくのだと思いました。
それから私自身もマラソンや短歌などの趣味を持ち、今は起伏の少ない道を歩いています。若い頃にあった淋しさや悲しさや虚しさや苦しさは消えていません。ただ、これからの時間のなさに多少いらいらすることはあります。たくさんやりたいことがあるように思います。しかしながら、お酒をやめることがなければ、こんな日はやってきませんでした。だからとても感謝しています。
いい人がたくさんいる断酒会や医療関係者に助けられて、ここまでお酒をやめてきました。それはとても幸せな事でした。おそらく、こんなところは世の中にあまりないように思います。自分一人の力など、ほんとに取るに足らないものでした。せっかくお酒をやめているのですから、これからもやめ続けていきたいですし、また、お酒に悩む人たちの役にも立ちたいと思っています。

『父が残してくれた道標』池田市断酒会 男性

梅雨が明けたこの時期、大のビール好きの私には楽しい思い出、そして辛く苦しい思い出が脳裏をかすめます。
18歳で自衛隊に入隊したのをきっかけに、アルコールを日常の生活の中で嗜なむ事になり、当初は人並み程度の量で満足出来ていたのですが、お酒を飲む機会の多い環境下で次第に酒量が増え除隊する頃には、いっぱしの酒飲みになっていました。ただ、この頃には体調の変化等は感じず、家庭を築き二男を授かり世間一般の幸せな生活を送っていました。ところが、家庭内にさまざまな問題が起き、あわせて自身の仕事に対しての不満等が重なり、押さえていた物が崩れる様にお酒に手を伸ばす頻度、量が増え仕事帰りに飲み歩く様になり深夜の帰宅が日常になってしまい、このままでは、家庭が崩壊する危機を感じ酒量を抑え何とか子供等を独り立ちさす事が出来ましたが、その間妻とは世間体を繕う仮面夫婦を演じきり、いざ離婚の話になると拒絶され、その矢先に転勤に伴い単身生活を始めますがその間妻との離婚の話も進まず、新勤務地での仕事と人間関係で精神的に追い込まれ逃げ場として手を伸ばしてしまった。ちょうど6年程前のこの時期だと記憶しています。暑さも手伝い酒量は一気に増え、食事の代わりにビールで満腹感を味わう生活へと。当然体は悲鳴を上げ生活も昼夜逆転となっていき多量の寝汗、手の震え、仕事に行けない不安、深夜に目が冴え物静けさに孤独感が募り、又ビールを口に運ぶこの時すでに一日に一箱24 本を軽く飲み干していました。
目が醒めている時は常に飲んでおりそして気を失う毎日を何日も過ごし、時折この状況に不安を感じ受診し、適当に医師の問診に答え憂鬱感、睡眠不足を強く主張し処方された薬の説明も気に止めず、帰宅しビールで薬を流し込む始末で、睡眠導入剤、抗うつ剤がその後、どの様な効果をもたらしたか、数日後朝目覚めた時に手足が動かない、全く力が入らずその状況が把握出来ず、ただうろたえるだけで、枕元の携帯で友人に助けを求め救急隊員が遠くで声を掛けてくれている記憶は有りますが、それから三日間程は記憶が無く覚醒した時は総合病院のICUのベッド上で両手足と腰を拘束され、導尿カテーテル、その上にオムツをされている無残な姿でした。意識が戻ってからも全身に力が入らず、ベッドに座る事さえも出来ない状態、当然歩く事も食事をする事も一人では全く出来ない、それでも約1カ月の入院でほぼ普通に近い状態まで回復し退院する事が出来、主治医からは「お酒は程々に」と指導を受け元の日常生活に戻りおとなしくしているのも束の間、年末年始を迎え宴席へ出る機会が有り再飲酒し又、日常的に飲酒する様になり、月日が流れこの時期を迎え以前と同様、薬をビールで流し込む服用の仕方をして今回は今、目の前で起こっている事は、現実なのか、夢なのか幻覚なのかの判断がつかない程の幻聴幻覚に襲われる日々を過ごし、時には意識を失い床に倒れている所を知人に発見してもらい救急搬送され、飲酒が原因との事で点滴後帰宅し、又ビールを吐き出しながら飲み続け、見兼ねた友人が母へ連絡し実家近くの総合病院へ知人の医師を介して入院、その時の記憶も無く意識が戻った時は一度目の入院と同様無残な姿になっていました。
この時の主治医は母に、脳も麻痺しており肝硬変も併発し血糖値も異常で、これ以上は回復しないと伝えたそうで、この時母は長年連れ添った最愛の夫も心臓病で、入院しており余命いくばくも無く一人で付き添い介助して心労もいっぱいだったと思います。医師から伝えられた内容を聞き父が亡くなった後の生活は気の狂った息子とは困難だと死を覚悟していたと聞きました。
しかし、私を救ってくれたのは、余命少ない父が、病床で依存症の回復の手立てを見出してくれ、母へ「2人の子供だから大丈夫」と内容を申し送り、そして私が退院し父のお見舞いに行き、退院した事、専門病院へ入院する事を伝えると意識の薄い中、一筋の涙が流れ落ちました。これが、父との最後の会話になり3日後に父は帰らぬ人となってしまいました。父が息子に残した最後の道標に従い専門病院、断酒会と繋がり今、私は生きさせて頂いています。数々の心を打たれる体験談、そして志を同じくする方々の雑談の中で自分の為になる言動を一つ一つ拾い集め、お酒の無い生活の喜びを感じ生き続けて行く、それが、私の出来る亡き父と残された年老いた母、息子たちへの償いだと自分に誓い毎日を過ごしていくつもりです。そして自分の為にも、あの苦しい辛い日々を2度と繰り返さない、繰り返したく無いと強く心に念じ、ここまで回復させて頂いたすべての方々に感謝し残された人生を謳歌して生きたいと思います。

『アルコール人生と私』枚方断酒会 女性

私がアルコール依存症になったのは離婚をしたのが原因です。幼い息子3人と生活をする為に飲食業の仕事をするようになり、私のアルコール人生が始まりました。私はアルコールに対しては幼い頃の生活環境で敏感になっていました。それは父親の酒乱の姿を嫌というほど見て来たからだと思います。その為にアルコールに負けたくない、何があっても父のようには絶対にならないと心に決めていました。
でも血の繋がりは怖いもので、仕事を始めた20代前半はアルコールを飲んでも、ほろ酔い気分くらいで家事の事、息子達の事なども出来ていましたが、異変が出てきたのは30代になってからです。アルコールの飲み方も変わりだし少しずつ心も身体も壊れていきました。夜中に仕事が終わって帰ってからも冷蔵庫からアルコールを出して飲みながら心の中の寂しさや、苦しさ、情けない気持ちを消すように・・・とっぷりとお酒に入り込んでしまい酔っ払って記憶が無くなるまで飲む毎日を送っていました。
朝もアルコールが抜けでない状態で震える身体で家事や育児をしていました。その頃一番辛くて恥ずかしかったのは買い物に行って精算をする時に、手が震えて小銭を財布から出す事ができなかった事や、買い物した袋だけを持って店に財布を置いてくる始末でした。
30代後半から40代前半にかけて、お酒の量は増え続け飲み方がひどくなっていました。意識が無くなる事も多くなり、もう自分でコントロール出来なくなっていました。息子達は、幼い頃から私の飲酒の姿を嫌ほど見ていたので私がアルコールを飲みだすと、お酒を隠したり捨てたりして、それに気付くと文句を言っては外に出て探し回っていた事を思いだします。そんな哀れな姿の私を見てその頃の息子達は情けなく悲しかった事だと思います。でも成人した息子達は私を見捨てる事をしませんでした。長男は私の酒に対する姿をみて「もうオカンは病気だ。このままだと死ぬかもしれない」と思い、アルコール専門病院を探すようになりました。次男と三男からも「オカンもう俺達の事を心配しなくていいから、今まで育ててくれて感謝しているからオカンのこれからの人生を大切に幸せに生きて行ってほしい」と言ってくれました。
ガリガリの痩せた私・・・・・・感情のない私・・・・・・ずっと支え続けてくれた息子達、両親、妹と友人達には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
平成25年5月に新阿武山病院に繋つながり入院をする事になりました。担当の医師はすぐにアルコール依存症と判断しました。そしてカウンセリングやアメシストのミーティングを受けて数カ月の入院のおかげで心も身体も元気になっていきました。退院してからもミーティングや院内例会に参加してお酒の怖さなどを前向きに考えて行くようになりました。
現在、婦人科の病気や血液の病気などはありますが、平成29年10月に枚方断酒会に入会する事ができ、断酒会の仲間の方々に沢山「愛」をもらっています。
断酒をする意味を先輩たちの姿や優しい言葉で教えていただいています。
やっと幸せな人生を一歩ずつ進んでいけている事に心から感謝しております。
笑顔と正直な心と謙虚な心を忘れずに、これからも断酒の二文字と共に自分に素直に前向きに生きて行きます。そして特に女性のアルコール問題の方々に少しでも勇気を持ってもらえる様に頑張って行きたいと思います。・・・・・ ありがとうございました。

『やくざからサラリーマンへ』東大阪断酒会 男性

自分は、昭和39 年生まれの55歳です。中学2年生の夏に、グレ始めて暴走族に入り、中学3年生の時には、暴力団事務所に出入りするようになり、そこで覚えたのが覚醒剤でした。 20歳を超えて親分宅に、3年間、部屋住みした以外は38歳まで覚醒剤、麻薬、大麻、なんでもコイのジャンキーでした。凌ぎは、金融で、羽ぶりは良かったです。傷害で8回捕まりましたが、全部示談で治まりました。奇跡的に自分は、犯罪歴無しです。最後は、大阪の鶴見署に逮捕されてそれも傷害でした。この時は1カ月前、別の事件も絡んで覚醒剤を抜いていて、尿検査をされたけど、覚醒剤は出ませんでした。これをキッカケに、ヤクザと覚醒剤をやめる覚悟で、久米田病院に3カ月入院して、覚醒剤を切りました。自分の主治医に、覚醒剤を止めたかったら酒を飲めと言われ、もともとが、酒も好きで毎日、カルピス酎ハイを飲んでいました。自分は、酒を飲まなかっても、トッパで直きに喧嘩します。酒飲むと、酒乱もいいとこで、喧嘩しやな、酒を飲んだ気がしない程、気が大きくなります。何故、酒をやめるキッカケになったのかは、自分は、一人っ子でスーパーマザコンなのです。たまたま、実家に帰り母親と赤ワインを飲んでいたんですが、酩酊してしまい、大好きな母親を半殺しにする程、どつき回したらしいです。それから、母親は実家から、叔父の家に逃げて、どうしたら実家に帰って来てくれると尋ねたら、酒を止めてくれと言われ、東布施クリニックに連れていかれ、最初は、2、3日止めたらええのやろ、と思っていたら、一生止めてくれとの事、出来ませんと帰りました。それから半年、酒と赤玉を飲んで寝ていたら、朝、ラジオから聴こえる、浜村淳のありがとうのフレーズが、夜中の3時に、幻聴で聞こえました。これは、怖くなかったけど次の日、また、酒を飲み、赤玉飲んで寝ていたら、お腹の上に、ガマガエルが出て来て、ゲロゲロ泣いていました。腰を抜かす程、びっくりして、また、その次の日も、ガマガエルが出て、頭がおかしくなったと思い、東布施クリニックの辻本先生に、新生会病院入院を進められ、院内飲酒と喧嘩しない約束で入院して無事、円満退院して来ました。退院して、生活保護を貰ってデイに通所しろと言われましたが、自分はまだ39 歳、働けるので、ヘルパーの免許と二種免許を取って、コムスンと言う会社で働きました。給料は12 万円、8年間辛抱しました。自分は初めAA枚岡の会員でした。1年経つ頃、A A枚岡の先輩に、AAか断酒会、どちらかに決めろと言われ、ただ、ソフトボールが有るだけで、断酒会に入りました。
初めは、布施支部に入り、ソフトボールで知り合った、大先輩、若江支部の東さんに、「飯沼、ソフトボールする人間は、酒飲んだらあかんのや」「断酒会の模範にならなあかん」と言われ、頑張りましたが、5年後に、再飲酒。酎ハイ3本飲みました。このお酒が、おいしくなかったので、現在があると思います。それとソフトの監督をしたのが、ターニングポイントになりました。顔を売りに、ソフトボール部のある断酒会、毎日例会を始めました。堺の三原さん、大阪南の實野さん、この方々と仲間になれたのが、自分の財産です。自分は、拡張型心筋症で余命宣告されて、後2年程の命、自業自得は、解かっていますが、くじけそうになったら、鶴見断酒会の浜田先輩にパワーを貰いに行きます。自分は大先生が言っていた、仲間を選べと言うのが、やっとわかりました。今後2年弱で仕事をリタイアして、病気と向かい合います。人生なめて生きて来ました。大概、面白い人生でした。覚悟は出来ています。悔いはありません。この断酒会に入れてもらい、真っ当に、生きられたことを仲間に感謝して、これからは、自分みたいなヤクザ者でも立ち直れる姿を例会で見て貰いたいです。それと自分の考えは、アルコール依存性は病気と考えていません。一滴の酒さえ飲まなかったら、健常者で仕事も普通に出来ます!病気だからと飲むのは、ただ、我慢が足らないだけです。お酒やめたら、次は仕事、自分は、酒止めていたら徐々に世間に戻れました。仕事は辛抱です。我慢は、何処まで行っても我慢、辛抱はその先に、褒美が待っています。自分は、我慢と辛抱で努力して来ました。これからも我慢して一生断酒に邁進します。
※1 トッパ トッパ 無茶者の意味
※2 赤玉 劇薬指定の向精神薬。依存性も高い。2016年6月販売中止。

『とりあえず、から少しずつへ』松原市断酒会 男性

私はこの手記を書いて、まさか自分が30過ぎてアルコール依存症になり、現在はお酒も少し止まっているという生活を送っているとは、20代の頃は想像もしなかったと改めて思います。父を病で亡くして、母との2人暮らし。それまでも職が中々安定せず、27歳で入社した携帯電話会社(営業事務、顧客対応)で、無我夢中で働きました。最初は満足感で飲んだお酒、同僚達とのお酒が次第に孤独酒に変わった。前職の営業で失敗した日のコンビニ酒(チューハイ)。それを思い出し、駅前のコンビニ飲酒から始まり、高揚感で電車に乗らず歩いた駅の数だけ飲みました。
泥酔で財布を無くしてタクシーの無賃乗車、貴重品の紛失、祖母の葬式で人の飲み残しを啜り半裸で泥酔、寝込んでいる日は心配する母に大丈夫と嘘をつくありさま。30歳の時に自宅で転倒して左肩粉砕脱臼骨折する。その影響で腎不全の危機に陥り、内科医には「今回の怪我はお酒が原因、肝硬変一歩手前ですよ、今後はね…」を聞き流し職場へ復帰する。復帰祝いで同僚に「大変やったな、退院後やし、今日はお酒止めや」と心配されて、その場は我慢するも、飲み会の解散後にコンビニへ行き独り飲みをして同僚を裏切りました。そして更に酷い飲酒サイクルになっていきました。
内科で一時、点滴複数回、2回目の入院で母親がずっと前から地元の保健所、金岡中央病院の家族教室に通ってくれていたのを知りました。「とりあえず」、32歳で金岡中央病院へ入院を決意しました。今思えば母の為でなく、自分が「世間から逃げたい」為に決意したような気がします。入院中に会社を退職し「とりあえず」治療し、プログラムに参加しようと思いました。その中で「断酒会に行きませんか?」と誘われてグループに入れて頂いたのが幸いでした。
断酒会を回りながら3ヶ月を経て退院(2018年1月4日)しました。自分の気持ちは「再就労までどうするか」が強く、「とりあえず」就職まで同病院のデイケアへ通うことにしました。その頃に「否認」がきました。
他の方の壮絶な体験談(飲酒事故、虐待、暴力、刑務所、等)を聞き「自分はそこまでいっていない、帰り道や家で飲んだだけ。母には迷惑かけたがそこまでしていない」という気持ちです。退院して2ヶ月、飲酒欲求もないし、何となく治った?このまま治療を徐々に離れて、また飲める日が来るんちゃうか、と感じた時は、人様の体験談を他人事のように聞いていました。すぐに些細な事でチューハイ1本に手をつけ数日で入院前と同じ連続飲酒になってしまった。幸い、病院や家族の協力もあり2週間後、病院外来での通院を再開することになりました。スリップは終わりという考えは病院スタッフ、断酒会の先輩方が変えてくれました。「戻ってきてくれて嬉しい」と言われました。後日、私が入院中に断酒会に通った仲間の訃報を聞きました、命日は私が病院に復帰した日と同日でした。大粒の涙と共に先輩の「戻ってきてくれて」の意味が「少し」わかりました。
以来、私は就職を保留にし、自分を知る勉強をしようと2018年4月に松原市断酒会に入会しました。金岡中央病院デイケアで通院も兼ね今もお世話になっています。体験談を(ただ聞くともなく)聴こうとするのは今も難しい事です。年代性別関係なく自分と同じ経緯の体験談、家族の体験談、帰宅して母に少しずつ「この時は僕、どんなんやった?」と聞くようになりました。母は事細かに答えてくれます。え?と驚愕しながら母と夕食でそういう話を今もしています。
連続飲酒の時、食べ易いようにと作ってくれた鰹と梅のおにぎりは本当に美味しかったです。ですが、今のご飯の方がもっと美味しいです。
「自分はあそこまでいってない」という否認は「自分があのまま飲み続けたら、もっと酷い状態に、人様の命の危険に、その前に止めて頂いた」と解釈しております。2019年の父と母の日に(昔の)家族写真集を贈りました、昔の写真で僕はしっかり両親から愛を受け、育てて貰ったか「少し」わかりました。家族への償いは、自分が受けた愛情を無駄にせず、少しずつ精進して、一日を生きることと思っております。
この「少しずつの一日」を過ごせているのは、病院の方々、断酒会の先輩方のお蔭と感謝致しております。

『もう一度チャンスを下さい!』高石市断酒会 男性

初めてアルコールを口にしたのは中学生の時です。岸和田市で生まれ育ったのでだんじり祭りの青年団に入ってからです。
その時は、祭りの雰囲気で先輩に飲まされた感じで、特においしいとも感じませんでした。その後、高校に入学したものの一年生で中退、親の紹介で枚方市で働くようになりました。会社の寮に入り、昼は会社の食堂、夜は先輩に居酒屋に誘われ、その頃からアルコールを本格的に飲むようになりました。休みの前日は吐いて飲むまでになり、段々と飲めると勘違いをしていきました。
自分は19歳、嫁が23歳で結婚しました。すぐに、年子で子供ができ、楽しい結婚生活でしたがアルコールは毎日飲んでいました。
今思えば、仕事から帰ってきたときにビールが冷えていなかったら怒鳴ったり、無理に買いに行かせたりと悪かったなと思っています。その後、3人目の子供ができましたが、自分の好き勝手ばかりで、休みの日は野球やソフトボールの試合が終わればベロベロになって帰るようになっていました。34歳で体に異変を感じていましたが飲み続けていました。体が動かなくなり、一般病院で肝硬変と腹水、黄疸で3カ月の入院、退院後も吐血を繰り返し、入退院が続きました。
その後は、4年以上アルコールを止めていましたが肝臓の数値も安定し、主治医から「少しくらいなら飲んでもいいよ」と言われました。その時、嫁に話をすればよかったのですが言えず隠れて飲むようになり、初めは、1本2本で押さえていました。当時、トラックの運転手をしていましたが、段々と休みの日には量が増えるようになり、仕事がある時も飲みすぎてアルコールチェッカーでひっかかり欠勤扱いに何度もなりました。その度に嫁にも怒られましたが、アルコールを止める事ができませんでした。
その日は突然来ました。大きなスーパーでビールを買い、駐車場で飲んではまた買いに行きを繰り返し、帰りに飲酒運転で捕まり、2日間拘束されました。そのおかげで、会社はクビになり退職金もなく、買ったばかりの家のローンも残りました。言い訳になりますが、自分は家の事もやり、Wワークで働き、家計を助けていました。しかし、仕事が休みの日には酒を飲み、記憶がないまま食事をリビングにばらまくことがありました。三女が帰ってきてその様子を嫁に電話し、聞きつけた父が家に来ました。寝ていた自分を起こし、何度も殴られました。なぜ殴られているのか自分自身はわかりませんでしたが、三女が父に「お父さんを許したって、助けたって」という声は今も鮮明に覚えています。その後、一週間実家で過ごし、看護師の姉の紹介で、浜寺病院につながりました。嫁は「3カ月入院してちゃんとアルコールを止めて帰ってきて下さい」と言ってくれました。自分も真剣にこれ以上家族に迷惑はかけられないと思い、自分なりに勉強しこれ以上飲めば体がどうなるかを考え、退院したら一生懸命がんばって一からやり直すつもりでした。入院中に両親と嫁が話をして、又家に帰っても同じことの繰り返しではないかと親が言ったようで離婚することになりました。病院の面会室で離婚届の印を押しました。
退院後はひとり暮らしで作業所に行くようになりました。作業所で和泉断酒会の会長に会い、入会を勧められてすぐ入会しました。僕にとって運命の出会いでした。会長は相談に乗ってくれ色々とアドバイスをしてくれ、大変勇気づけてくれます。断酒会のソフトボールもがんばっています。元嫁とは、たまに連絡をとっていますが、一年すこし飲んでいない生活をしている今は、口調も変わり、「自分に強くなって下さい」と励ましてくれることもあります。飲まない両親にもこの病気を理解してもらうために、自分も一生懸命語っています。少しくらいは両親も理解してくれています。先のことはどうなるかわからないけど、これからも飲まない生活で頑張っていきたいと思います。迷惑をかけた家族のもとに!チャンスを。冬はやがて春となる。

『飲まない日を重ねる』堺市泉北断酒会 男性

結婚をして翌年には娘を授かり、順風満帆で誰もが羨むはずの私は、仕事の人間関係に行き詰まり何ら躊躇することなく朝からお酒を飲むようになりました。上司の叱責、同僚の蔑み・・・・・・ 、今何度振り返ってもその一つひとつはそれ自体全くお酒を飲む理由では無いのですが、その当時は「飲まないと、やってられへん」かったのです。もちろん罪の意識、恥ずかしい気持ちもありました。でも、あの一杯の喉ごし、ファーと全身を巡るあの快感。たちまちハマっていきました。
平成15 年31 歳の頃です。加速度的に、より多くより強くお酒を求め、30代半ばにはスーツを着ながらウイスキーのポケット瓶をラッパ飲みする様になっていました。愛する家族への思いなどもう全くありませんでした。仕事より、家族より、私はお酒をとっていきました。周りのことなんてどうでも良かったし、邪魔でした。グーで殴らなかったですが、話をしませんでした。寄り付きもしませんでした。無視・・・・・・ これほど酷い精神的暴力はありません。そんな飲酒生活も長くは続かず、7 年後の平成22年、取引先との接待ゴルフ中にアルコール性てんかんで倒れ、運良く専門クリニックと断酒会を知りました。毎日通いました。元妻と娘もついて来てくれました。それで、こんな事を知られるとアル中のレッテルを貼られる。社会から抹殺される。会社もクビになるし、離婚されて娘と離ればなれになる。止めないと!でも止められない。私の孤独で秘密のお酒は止まりました。たちまち体も心も健康になりました。本当に嬉しかったです。
でも、2カ月もしない内に「まだ38 歳、若い。止めている先輩の止め始めは皆50代だ」と、何の気もなくまた一杯のお酒に手をつけました。たちまち元の木阿弥、さらに酷い状態になりました。止めている前提、飲んではいけない前提での秘密のお酒ほど辛いものはありませんでした。「主人がお酒を止めてくれているんです!」と元妻は嬉しそうに当時の家族会の人に語っていてくれたそうです。娘もパパとママが仲良くしているので、本当に安心していました。それなのに、私は裏切りました・・・・・・ 。もっともっと酷くなり、万引きを繰り返し、警察に捕まった時、柄受けにきた元妻の顔は忘れません。最後まで「疑う」ことを知らなかった元妻は、この裏切りに大粒の涙を流しました。ママが号泣している、パパはうなだれて憔悴しきっている。そんな二人の姿を当時小学校一年生の娘が見ていました。本当に良い妻と娘でした。ギリギリまで信じてついて来てくれました。私が飲んだくれても、なお彼女は依存症の本を読み漁っていましたし、断酒会にも病院の家族教室も行ってくれました。
万引き、飲酒運転、暴言、失禁・・・・・・ それでも信じてついて来てくれました。でも私は最後絶対言ってはいけない言葉を二人に言い放ちました。「誰のお陰でメシ食えてると思っとるんや!二人とも死んでしまえ!!」と。共依存、娘のトラウマ「専業主婦で手に職も無い何の能力もない無能な私達ですが、あなたと暮らすより二人で生きていった方がましです。それは覚悟の上です。あなたと一緒にいる意味がわかりません。言ってはいけないことを言った時点で夫婦関係は破綻しています」と別れていきました。その後入院8回、和歌山の断酒道場、神戸の作業所を転々としても止められなかった酒が、4年前にようやく断酒が始まり今日に至っています。今回寄稿させていただき、改めて思います。私の酒害はえげつないな、と。人の人生台無しにしたな、と。私は断酒することでしか、生きる資格無いな、と。改めて強く思いました。先のことは分かりませんが、これからも今日一日飲まない日を重ねていきます。

『今の正直な気持ち』平野断酒会 家族 女性

主人の断酒が始まり、6年が過ぎて、私が今、一番思うことは「生きていてくれて良かった」心からそう思っています。
この何年か、クリニックや家族会で依存症の病識や私自身が元気を取り戻す、という事を教えて頂き勉強させてもらいました。
特に私自身の不安定な精神状態がどうしようもなく苦しくてソーシャルワーカーの方々に何度も助けていただきました。
アルコールに囚われている本人はコントロールが出来ない状態になっている事や、飲んでいる時の暴言もほとんど覚えていない、本心で言っていたのでは無いという事も少しずつ理解が出来るようになりました。でも、病気になるまで好き勝手に飲んできたのは、本人で、私は本当に長い間、苦しめられてきた。その事実は消えないし、正直、まだまだ納得が出来ない気持ちもあります。
毎日、繰り返される狂った生活の中で主人はどんどん、おかしくなっていきました。
飲酒運転、ギャンブル、嘘をつき隠し事をする。酒を飲み自転車に乗ったまま意識が無くなり、ひっくり返って何度も大怪我をして、血だらけで帰ってくる。何で怪我をしたのか本人は自分で覚えていない。私は、怪我で腫れ上がっている主人の顔を見ながら「お願いやから、こんな狂った事するのもう、やめてえやー!」と泣き叫んでいました。酒の影響で痛みを感じていないのか主人はぼーっとした顔で、半分、笑いながら少し、申し訳なさそうに「ごめん」と一言、言いました。その姿が悲しくて、惨めで、情けなくて、私には本当に狂った異常な姿に感じました。
どんどん、おかしくなっていく主人にどうしていいか全くわからず、毎日ただ大声で怒鳴り合い、ののしり合って喧嘩をするか、お互い無視をする。最後の方は、つかみ合いの喧嘩にもなっていました。
私の父親も、私が幼い頃から仕事もせず朝から酒を飲み、家族を苦しめてきました。些細な事を、キッカケにネチネチ怒りだし、理不尽な事を理由にして私と弟に脅すような言葉で怒鳴りだす。母親が私と弟をかばったり口を出すと、そこから夫婦喧嘩、父親の暴言暴力が始まる。子供の頃、家族皆んなで笑った記憶もなく家庭というより、ただの暗い部屋の中でした。いつも私は『大人になったら幸せになるんや。お母さんみたいに不幸にならへん。お父さんみたいな人は絶対見つけへん』と思っていました。
でも結局、大人になった私は母親と同じようにこの病気に巻き込まれて、主人を憎み、罵り合い、毎日毎日、喧嘩をしていました。その中でも、私が一番悲しかった事は主人が平気で嘘をついたり、隠し事をして私を騙す事でした。私は、いつも心が寂しかった。主人のことを信じたかった。毎日、不安で心配している気持ちに気づいて欲しかった。
多分、私はずっと、子供の頃から、信じられる、安心できる自分の居場所が欲しかった。それを主人に求めていたんだと思います。
断酒が始まり、3年と8カ月で主人の食道癌が見つかりました。その時の主人はびっくりするほど、前向きでした。「断酒が出来ているから、手術が受けられるし、命も助けてもらえる」と泣き言も一言も言いませんでした。
手術後、主人は痛みに耐えながらしんどくて辛いリハビリと一生懸命、闘っていました。
その後も、スポーツセンターに通い体力を取り戻そうと、 必死で頑張っていました。その時、始めて私は「この人にこんな、凄い力があったのか」 「こんなに強い人やったんや」と思い、驚きました。病気を乗り越え、酒に逃げなかった。その頑張ってきた主人の姿を見ながら、6年が過ぎた今、私は主人のことを信頼できるようになり尊敬もしています。そして、私にとって大切な人だと思っています。
今年、長年ずっとやっていなかったスキーや、魚釣りに、二人で行けるようになりました。
アルコールの生活の中で、無くしてしまった時間を、これから二人でゆっくりと、積み重ねて行きたいと思っています。
時々、子供のようなつまらないケンカもしますが、最近は、お互いに向き合って、話し合ったり仲直りすることも、少しずつ出来るようになってきました。
この穏やかな生活も、断酒会のたくさんの仲間や家族の人達に支えていただいて今の私達があるという事を忘れずに感謝して、これからも、二人で力を合わせて生きていきたいと思います。本当に、ありがとうございます。これからも、どうかよろしくお願いします。

なにわ第77号

『断酒4年を超えて』大阪市中央断酒会 男性

皆さんのチカラのおかげで、シングルファーザーの厳しい中、4年の断酒が経ちました。私は、昭和50年に四国香川県で生まれ、祖父の代からエネルギー関係の仕事を営む家庭に育ち、自宅が家業の倉庫と併設していたため工具に慣れ親しんで育ちました。当時は、全く気にしていませんでしたが、何故か倉庫には、ワンカップのコップがたくさんあり、ネジ等の入れ物に使用していました。この病気になって知ったのですが、アルコール依存症の血筋のようです。
初飲酒は、中学2年でした。夏休みに悪ふざけしてカラオケボックスで飲酒し、周りの友人は「酔って気持ち悪い」と、しんどさを訴えましたが、私には「楽しい。高揚感がすごい」と感じた事を覚えています。高校を卒業し、進学のため高知に住みました。お酒にとても寛容な土地柄で、飲み方も、返盃や一気呑みをする風習があり、夕方7時になると繁華街には、会社員が道で酔いつぶれているのを目にしました。そんな中で、私もお酒の考え方も緩くなり、飲み会などで耐性も強くなりました。
20歳で、就職して和歌山に出ていき、元妻と結婚をし、娘を妊娠し、仕事も家庭も頑張らないといけない状態でした。仕事は、パソコンができることもあり、プロジェクトの資料作成を新入社員でしたが、任され悪戦苦闘の日々でした。会社周辺に住む事ができたため、仕事を終え帰宅するのは毎日深夜1時頃になるような生活をしていました。すでに何かに依存する考え方をするようになっていたのかもしれません。子供もまだ小さくお風呂に入れるなど父親としてしないといけないことも週末ぐらいしかできていなかったと思います。お酒を飲むのは週末に夫婦で飲むことが多く、ビールや缶チューハイをケース買いしていました。
1ヵ月に1ケースぐらいの飲酒量だったと思います。でも、月日が過ぎ収入も増えると、飲酒量も増えていきました。一番よくなかったのは、三交代で、朝に仕事が終わって、昼から飲む事を「夜勤明けだからいいだろう」と理由を付けて平気になっていった事だと思います。その後、大阪に転勤して会社に認められるチャンスでありながら、仕事での嫌な事、不安、パワハラ、元妻の実家の借金問題をお酒でぼやかそうとし、最後はウツになってしまい精神薬・睡眠薬・お酒でどんどん現実をごまかし、逃げて行きました。
その結果、家族の機能はしなくなり、私は、自殺未遂し、元妻もウツになり、夫婦で処方箋とお酒漬けになりました。そして、娘も中学・高校に登校できなくなりました。仕事も休む事が多くなり、最終的に左遷されました。元妻も新しいパートナーを見つけ、私と離婚し、子供2人は私の下に残ってくれましたが、地獄のシングルファーザーの始まりでした。今まで元妻に頼っていた、育児や家事を、仕事の前後にしなければならなく、育児や家事をこなす為のチカラ水的にお酒を飲むようになりました。会社帰りの1時間半の帰路の電車で毎日お酒を飲まないと帰れない心と身体になっていました。そんな生活を2年ほどして、いろんな事に苦しみ1週間連続飲酒となり、死のうとしましたが、死ねず、母親が調べてくれていた小谷クリニックにつながりました。
毎日通院の2ヵ月目に、断酒会に藁にもすがる思いで、門を叩きました。その日に、20年以上も断酒している先輩を見て、「私も、年単位で断酒できるかもしれない!」と希望の光が見えました。断酒1年目は、断酒する苦しみ、2年目は、精神薬を断つ苦しみ、3年目は、子供との関係修復の大変さ、4年目は、増えていく仕事を酒と精神薬なしで乗り越えていく大変さ、5年目は、生きるとは何か、苦しみが、大変さへ、そして、新しい課題へと年々成長したように思えます。
断酒の道半ばですが、酒でごまかすことなく生きていけるように、皆さんの輪の中で断酒し続けたいと思います。最後になりましたが、ご家族の皆様の体験談により私は、目が覚め、やらなければいけないことがやっと見えました。ありがとうございます。

『私の酒害体験談』堺市深井断酒会 男性

私がお酒を毎日飲むようになったのは、18歳で就職した時からです。仕事が終わって帰宅後、晩御飯の前にビールを一本飲み、それからご飯を食べる毎日でした。たまに先輩、同僚と飲みに行くことは有りましたが、ほとんど家で飲んでいました。
そんな時、1人の先輩が私の支店に人事異動で来られました。その人はお酒が好きで、ほぼ毎日誰かを誘って飲みに行っていました。私も時々誘われて飲みに行っていました。
その人はお酒が大変強く、飲みに行った次の日でも、私が二日酔いでつらい時でも、普通に仕事をしていました。その様な姿を目の当たりにした時は、自分もいつかはそうなりたいとその時は思いました。そんなある日、その人を家に送る事が有り、家に行くと部屋中にお酒の空き瓶や空き缶が散乱していました。それを見た時はさすがに少し酔いがさめましたが、その後私も同じ様になるとは思いませんでした。
その後数年はその人と飲み歩いていましたが、お互い他の支店に異動となり、仕事も忙しくなり疎遠になりました。数年後に噂で、腎臓病の治療で人工透析をしないといけない様になったと聞いた時は、少しお酒の飲み方に気を付けねばと思いしばらく控えていました。しかし、仕事のストレスで夜眠れなくなり、寝る時にお酒を飲むようになりました。最初は少ない量でも眠れていたのですが、徐々に量も増え度数の高いお酒でないと眠れなくなっていきました。
平日の仕事帰りは、電車やバスの中でも飲む様になりました。父親が認知症の影響で言動がおかしくなった為、段々と家に帰るのが嫌になりました。そんな時に知り合いがスナックを始め、仕事帰りに毎日そこで終電まで飲みました。電車の中でもカバンの中に入れて持ち歩いていたお酒を飲み、度々電車を乗り越してはタクシーやフラフラと歩いて帰ったりしていました。そして、家に帰ってからも飲み続けていました。
休日は朝から飲み始め1日中飲み続けていましたが、仕事には休まず行っていました。
仕事を早期退職してからは毎日朝から飲み始め、飲んでは眠りを繰り返していました。退職当初は再就職の意欲もありましたが、失業保険が支給されている内は大丈夫だからと思う様になり、お酒を買いに行く時以外は外出せず、風呂にもたまにしか入らず入っても湯船に浸かるだけでした。
失業保険が切れた頃には、再就職への意欲はなくなっていました。毎日が酒浸りの生活が4~5年続きました。最後の半年位は食欲もなくなり、食べても戻すことを繰り返していました。それでも気分が悪いので、液体の胃腸薬を飲みながらお酒をダラダラと飲み続けていました。今から4年前のある朝、目が覚めると周りが霞んで見え、急いで眼科医に行きましたが悪い所が見つからず脳神経外科への紹介状をもらい帰宅しました。家で休んでいると、今度は周りの物が歪んで見え歩けなくなり、救急車で紹介された病院に搬送されました。搬送先病院での精密検査の結果は、脳が少し萎縮しており肝臓等に異常がありγーGTPが3000くらいありました。アルコール依存症と診断されましたが、その時には医師の言葉が耳に入らない状態でした。妻が通院出来る病院を探してくれ、車椅子での通院が始まり徐々にこの病気を理解しました。断酒会で皆様の体験談を聞くことで、仲間の絆の力を知り、断酒継続する事を心に刻みました。
最後に川田クリニックの川田先生並びに各断酒会の朋友の皆様に感謝し、皆様と共に断酒を継続してまいります。

『酒に逃げた私』岸和田断酒新生会 男性

私は、小学校4年生の時に不登校になりました。学校に行かなくなった原因は、友達が自分のことを悪く思っていると感じたからです。それは、自分の考え過ぎでした。今から思えば、子供の頃から回りに気を使い過ぎる性格だったように思います。保健の先生との出会いがあり、色々と相談にのってもらい、友達と話したり遊べるようになりました。中学1、2年生の時はほとんど行けませんでした。3年生の時は休まず学校に行きました。中学3年生の時、夜に公園で友達とチュ―ハイを飲んだのが始まりでした。友達はしんどくなっているのに、私は缶チュ―ハイを何本飲んでも気分が悪くならない。むしろ、緊張がほぐれ、いやな事、つらい事を一瞬忘れさせてくれました。16、17歳になって、ほぼ毎日飲むようになっていました。チュ―ハイでは酔わなくなり、焼酎を何十杯も飲むようになりました。18歳でカラオケ喫茶に行き、昼間から夜まで飲んでいました。どんどん酒の量が増えて、最初の頃は機嫌よく飲んでいたが、時間がたつと両親に暴言を吐いたり、暴力をふるったりしました。いやな事を忘れるために飲んできた酒が、飲むと逆に悲しくなった。
ある日、「このままの生活を続けていていいのだろうか」と思うようになってきた。いつものように昼から飲んでいたら、急に全身がけいれんし始めた。動けなくなり、食事も受けつけなくなって、その内、酒も飲めなくなりました。それで、母親が保健所に電話して断酒会の事を知りました。最初は母親だけが断酒会に行き、その後、私も何回か断酒会に行き、専門病院へと繋がりました。病院で点滴をして一週間程で楽になりました。外出、外泊を繰り返すたびに酒を飲んで、止める気はなかった。飲みたいから2ヶ月半で退院した。退院したその日から酒を飲んでも離脱症状はこなかったです。飲んでは止めの生活で一年が過ぎました。その後、離脱症状が起きて2回目の入院となりました。1回目の入院の時より状態が悪くなり、回復するまで1ヶ月かかりました。断酒会には時々行きましたが、酒をやめる気はありませんでした。3ヵ月で退院し、2、3日後に、又、酒を飲んだ。4回目の入院後、1年は止めたが、いやなことがあり、酒を飲み5回目の入院。状態がひどくなり車いすでの入院生活となった。何日かして歩けるようになり、回復するのに2ヵ月以上かかった。やっと真剣に「酒をやめなければ」と思った。大きな災害があり、その様子を見て「自分はこんな生活をしていてもいいのか」と強く思い、その日から酒をやめる決心をした。二年間断酒会に出席したが、気分がうつ状態になり、何年か断酒会に行けなかった。その間、不思議に飲むことはなかった。心の中では「一人ではやめていけない」、何とか断酒会に行こうとしたが、体がいう事を効かず行けなかった。その後、うつが良くなり「断酒会に出席しよう」という気になりました。自分のペースで断酒会、院内例会などに行くようになり、多くの仲間の体験談を聞いたり、自分自身の体験談を話すことで初心を思い出す事ができた。飲んでいた頃の私は、酒の力を借りないと人とのコミュニケーションがうまくとれない。人と会うたびに酒を飲み、酒をやめて最初の頃は人と会うのに緊張したり、人の輪に中に入るのが苦手でした。緊張をほぐすために酒を飲んだ記憶がある。酒をやめ続けると徐々に人の輪の中に入っていくことができた。後で気がついたのですが、つらい事、悲しい事、いやな事があるたびに酒に逃げてきたが、結局は何も解決しないという事がわかった。断酒会の仲間、家族、病院の先生方の支えがあって酒をやめる事ができている。これからも仲間、家族に感謝の気持ちを忘れずに一日断酒を続けていきたいと思います。

『お酒と私』羽曳野市断酒会 男性

僕のお酒は、16歳の頃、友達と興味本位で缶チューハイを1本買って飲みました。でもその時のお酒はとても不味く、大人の方達は、こんな不味い物、毎日よく飲めているなという思いでした。18歳になって友達と酔っ払う気持ち良さを求めて、味なんて不味くてもただ酔っ払って自分を忘れたい!そんな気持ちでお酒を飲む様になっていました。そして、18歳で将来の事も全く考えていなかった僕は父親が会社を経営しているもので、働くかと言ってもらい、父親の所で働くようになりました。そうすると、夜、仕事が終わり家に帰ると僕のお酒が置いてありました。それから毎日の様に家族と晩酌するようになりました。
でも、お酒は酔っ払う為に飲むものだと思っていた私はその後も友達と飲みに行ったり、飲みに行く時も、平気で飲酒運転をして、出かけていました。今、思うとよく交通事故を起こさなかったなあと思います。友達と飲みに行っても、つぶれるために飲んで、帰りは友達のお世話になる。つぶれるために飲むのが当たり前でしたから飲み友達も1人、2人と段々と僕の前からいなくなっていました。仕事もつぶれて帰っていますから、お酒の匂いをプンプンさせて、毎日の様に遅刻、欠勤は当たり前の様な生活をしていました。父親の会社で働かせてもらっていましたから、クビにはなりませんでしたが普通の会社だと即クビです。飲み友達がいなくなった私は、家にお酒を買って帰るようになり、そのお酒も酔いたいが為に飲むお酒でしたから量も段々と増え空き缶もそのまま放ったらかし。それを片付けてくれるのも母親でした。でも毎日、そんな飲み方を続けていたものですから、体に異変があり、下痢、嘔吐の毎日で一般病院にかかって血液検査の結果は、肝臓の事を指摘され、お酒を控えなさいとしか言われませんでした。アル中にお酒を控えろというのは到底、無理な話でそんな事言われるんやったらもういいと病院にも行かなくなりました。そして25歳の自分の誕生日の時に酔っ払って家の階段から転落して、頭を打ち頭に血がたまる硬膜外血腫という病気で頭を手術しました。生きるか死ぬか分からないと医師はおっしゃっていたそうです。そんな事があって助けて頂いたのに、お酒のせいでそうなったんじゃないと否認。その時、お付き合いしていた女の方にも愛想をつかされ、その事にまたイライラして、お酒の量は増えるばかり。そして27歳の時に脇腹が痛く病院に行くと、胆のうに石がたまっている即手術といわれ胆のうを取りました。その病院に入院中に離脱症状かわかりませんが幻覚を見ました。その幻覚が、あまりにも怖くて、病院の中を暴れまわっていたそうです。その時の記憶は一切ありません。そしてその病院の精神科の先生に診てもらうとアルコール依存症の疑いがあるからとアルコール専門病院を紹介されました。そこで初めてアルコール専門病院と繋がって27歳でアルコール依存症と診断されました。診断されても何で27歳で一生、酒やめなアカンねん!まだ飲めるやんとしか思わず退院すると体は飲める体に戻ってますからすぐスリップ。1回2回と入院を繰り返し3回目の入院の時に初めて末梢神経をやられ、今でも両足の感覚はありません。1人で立つ事も出来ず、もう人生終わったと病院のベッドで泣いたのを覚えています。リハビリで歩ける位にまでは回復して、退院して、足が不自由な為、引きこもりになり、お酒は抗酒剤で止まっているような状態。そして4回目の入院の時に、入院中に通わせて頂いていた断酒会で物凄いパワーをもらって本当に仲間の力って凄いな、やっと自分の居場所を見つけた気がしました。
その入院中にも今まで自分がしてきた事を振り返り、本当に家族には迷惑をかけたな。物凄く甘やかされてたんやなと思い、今年の2月に退院し、すぐに地元の断酒会に入会させて頂きました。断酒会に繋がるまでに7年間、遠回りしましたが、今、絶対裏切ったらアカン。悲しませたらアカン。一生大事にしていきたい、そんな人とも巡り会えました。
断酒会に入会したからお酒が止まるわけではないのは分かっています。心底、自分自身、考え方を考え直さないと断酒会の先輩方、ご家族様のお話。胸に焼きつけて、これまで自分が、してきたこと、言った事で傷つけた方々に少しでも償いが出来るように、先輩方が断酒会に繋がっていたら絶対お酒は止まるから。そのお言葉を信じて一日断酒で頑張ります。

『振り向いてみれば』八尾市断酒会 男性

我が家の家系は元来、大酒飲みである。祖父は村一番の酒豪であり、父は村中の横綱と呼ばれた。 さて私はというと村一番でもなければ横綱でもなかった。ただ社内で一番強いと言われると何となく誇らしくもあった。「酒の飲めん奴は、仕事も出来ん」などと言う都市伝説がまかり通っていた頃である。
私自身の飲み初めは遅い方だろう。大学卒業を目前にした21歳の時、「社会に出れば酒の一杯ぐらい飲めんと付き合いも出来んちょっと訓練せんと」と寝酒を始めた。
就職した会社は案の定、飲み会の多い職場で社長筆頭に、上司、先輩に「俺の酒が飲めんのか!」とほぼ脅迫、飲んでは吐き吐いては飲みを繰り返し、やっと一人前の酒飲みになったが、酒癖は悪くはなかった。量もそんなに多くも無いし、暴れる事もなく大声出す訳でもなく、ましてや暴力など及びもしなかった。良くしゃべり、よく笑い、家族からは呑んだらすぐ寝る良い酒と言われていた。
そこで止まっていれば、今も旨い酒を飲んでいただろうに。
飲酒が著しくなってきたのは去年5月勤めていた会社が移転、通勤不可となった頃からだ。
家に一人でいると退屈で、大した趣味も無いし、次の仕事も見つからず、暇をもてあましていた。こんな時はろくな事を考えない。
家族は皆出勤し、一人きり飲み放題、朝・昼・夜・深夜と目が覚めている時は飲み、後は食事もとらずにうとうと眠っていた。当然栄養失調状態となり、γ‐GTPが1000近くなったのもこの頃だ。たまに飲み会に行くとブラックアウトする、自転車でわずか15分、帰りの記憶が全く無い。よけいに外出できなくなった。
家から出るのは酒を買いに行く時だけ、歩くのがしんどいので自転車で行くと必ずひっくり返るようになっていた。
常に体調が悪く、吐き気・胃痛・下痢・手足の痺れと痙攣、飲むと少し楽になるような気がして又飲む。そんな生活が約3ヵ月続く。
家族に促されて、ひがし布施クリニックへ。
辻本先生に「りっぱな、アルコール依存症やなぁ。しばらく入院するか?」と聞かれ、『気分も悪いし、ちょっと入院して体調整えて、又、旨い酒を飲もか、どうせ一週間か十日ぐらいやろ』と思い「分かりました入院します」「そうか入院するか、ほな、手続きするで。まぁ3か月半ぐらいかかるやろうけど。」え~3ヵ月か月半!、それを先に言ってよ! 今更嫌とも言えず「取りあえず一回帰って入院の準備をします」「あかん、このまま病院に直行すること。帰って入院前にたっぷり飲んどこと思てるやろ」(当たり)で着の身、着のままで阪和いずみ病院へ。
入院して初日から2週間点滴のみ。退屈なので治療に使うマニュアル本を読んで、十分もしないうちに依存症である事を認めてしまった。と同時に飲酒欲求も何処かに飛んで行ってしまった。まさに断酒優良児、いや断酒優良爺になりさがって?しまった。
ただ、ありがたい事に入院後、離脱症状がほとんど無かった。そして、一週間目から普通に食事がとれるようになった事。眠剤を使う事無く眠れた事。まさにラッキーと言う他は無い。
断酒会にも度々参加させていただきました。特に泉大津断酒会の皆様方にはお世話になり有り難うございました。
退院してすぐ八尾市断酒会に入会し、休むことなく酒害体験談を聴き、又自身も語りながら、勇気と知恵と安らぎを頂いております。
最後に、『覆水盆に返らず』、確かにやってしまったことの取り返しはつきませんが、それを教訓として、立ち直れるのも又、人間だと思います。
皆様方から頂いた分、恩返しして行けたらと断酒道に精進して参りたいと思います。
『継続は力なり』 有り難うございました。

『断酒会に入会して』寝屋川市断酒会 男性

私私の酒の遍歴は16歳まで遡る。高校の文化祭の打ち上げで年齢を18と偽って居酒屋で集まり、初めて口にしたチューハイ。何ともいえない味わいだったぐらいしか覚えがない。
高校を卒業して今の会社に入社し今年で28年目を迎える今、44歳だった昨年まで酒におぼれていたといっても過言ではない。入社してからビールも口にするようになり、酒は飲める体質でコップを空ければ注がれるまま飲んでいた。気分よく飲んでいたら、気がつけば記憶がなくなり、酔いつぶれて寝ていたのかと思いきや翌日「お前昨日あんなこと言うてたぞ」とか「お前〇〇さんの頭たたいとったな」と言われる始末。お詫び行脚に追われ、一度や二度では笑って済まされるものの、三度や四度、いやそれ以上となると「ええ加減にしとけよ」と言われ、毎日を過ごしてきた。今までよく警察沙汰にならなかったものだ、いや、京橋の駅前の交番の前で座り込んで寝ていたり、電車のシートで寝込んで、財布をすられたりと多少のお世話にはなっていた。父親も昔から酒癖が悪く、父親のようには絶対なるものかと思っていたが、まさか酒癖の悪さも遺伝するものなのかと思った。電車を何往復もしたあげく終電がなくなりタクシーで帰る日は幾度となくあり、タクシー代がもったいなく難波から京橋まで歩いて帰ったこともあった。急性アルコール中毒で病院に運ばれた時は、翌日迎えに来てもらった母親からさすがにこっぴどく怒られた。そんなこんなで会社の間でも私の酒癖の悪さは有名で、「酒さえ飲まんかったらええ奴やのに」、「○○の武勇伝やな」とまで言われ、苦笑いするしかなかった。そんな私も33歳で結婚したが、結婚してからも酒癖は治るはずもなく、酔っ払いが大嫌いな家内と何度も喧嘩をし、謝っては日が経ってまた同じことを繰り返していた。本気で離婚を突き付けられたりもした。逆切れして「同じこと繰り返す自分はもう生きる資格なんかない」と包丁を自分の首にあて家を出たこともあった。この時は本気で死のうと考えていた。淀川の河川敷を冬の真夜中の冷たい風が身に染みる中歩き、「このまま川へ飛び込んだら一発で死ねるんやろな」とも考えていたが頭を冷やされ我に返った。「何やってるんやろ」自宅へ戻り改めて家内に謝罪したら「警察に電話して、捜索願出してるから」寝屋川警察に電話したら、「あんた同じこと何べんもやってるらしいな。ええ加減にしときや」 と言われ、今度こそ本気で酒やめようと決心したのが、この出来事があった今年の1月である。断酒会は一昨年から寝屋川市で入会していたが、ある程度やめていくとちょっとぐらいいいかと少しずつ飲んでは元の木阿弥。体験談では飲んでいないと、偽りの断酒を語っていた。これではそのうち本当に警察沙汰で仕事、いや命さえ失ってしまうと思い、断酒会の支蔀長から紹介された京橋の藤井クリニックで家内とともに診察を決心する。過去入院まではしていないものの、今までの遍歴を先生に話した結果は「立派なアルコール依存症です。しかも中度の」その事実を聞いたときは正直ショックであった。手が震えてお酒を飲まないと震えが止まらない、そのぐらいの人がアルコール依存症なのだと思っていたが、飲み出すとコントロールが効かなくなること自体がアルコール依存症であると教えられ、誤解していた自分は愕然とした。18歳の時からそうだったんだと。「克服はできても完治することはない、克服するには節酒ではなく断酒しかない」と言われ、「今度こそ同じ失敗は繰り返したくない。過去の失敗は消せないが、これからの未来は自分次第なのだ」と決心し、今に至っている。まだ断酒歴も浅く、一度失敗しているので断酒の難しさを痛感している。自分の中で見えない誘惑と闘う毎日だが、そんな時は飲みすぎて失敗していた自分をイメージし、今まで節酒しようとして、できた日もあったが結局同じ失敗を繰り返す、それを26年間やってきたのだからそんな自分でいいのかと自問している。最近では飲み会があっても「自分は依存症なので飲みません」とはっきり言えるようになってきた。「根性がない」「少しぐらい飲んだらいい」と言われることもあるが、昔の自分を知っている仲間からは「やめたほうがいい」「えらいな」 とも言われているので、これからも一日断酒、例会出席、そして通院、断酒のモチベーションを保つためにこの3つを欠かさず続けていこうと思う。

『回復のきっかけ』豊中市断酒会 男性

私は16年前から仕事のストレスで酒量が増え、若い時に胃を切除していたこともあり、4年後には明らかに異常な状態となりました。2006年に専門クリニックでアルコール依存症であると診断され、豊中市断酒会に入会したのですが、失敗続きで断酒歴はまだ4年程です。
この間を振り返ってみますと、吐きながらも酒を飲んでいた時は「もうどうでもいいや」と思いつつも胃が痛く苦しく、断酒会入会後は飲酒欲求との闘いとたびたびの失敗による自己嫌悪で苦しみましたが、それ以上に断酒後は失った信用と時間の大きさを実感し、これからどう生きていくか、どうすれば断酒新生が見つかるのかで大変苦しみました。
その苦しんでいる当時は単身赴任中で、例会には所属する庄内東支部にしか出ていませんでしたが、ある時ふと単身赴任先の近くにも断酒会があることを思い出し、まさに藁をも掴む思いで舞鶴と福知山の断酒会に通うようになりました。そうすると最初は「断酒の目的が分からない」「生きるのがしんどい」といった話ばかりしていたのですが、不思議にいつの間にか酒は止まり、1年程でやりたいことも見つかり、それをするために今は毎日学校に通って充実した日々を過ごしております。たった例会出席を週1回から3回に増やしただけなのですが、人生を大きく変えることが出来たわけで、断酒会に感謝するとともに、断酒会が持つ不思議な力に驚きました。断酒会で断酒できる理由として体験談からの学び、仲間との出会い、居場所とか様々なことが言われていますが、私自身の理由についてはどれも当てはまるような気もするのですが、腑に落ちない感じもしておりました。
私は2017年の11月に会社を辞め、2018年の4月から学校へ通い始めるまで毎日が休みでしたので、ほぼ毎日例会をし、それまでに行ったことのない断酒会に行き、会ったことのない方々から体験談を聞かせていただきました。そして多くのことを気づかせていただき、学ばせていただきました。
その一つは、自分が断酒できた理由です。毎日例会を続ける中でふと気づきました。自分がやめられたのは、単身中に通っていた例会で毎回ある方々が私の話を〝ふんふん〟と頷きながら聴いてくれたからだ、あの方々は自分の話を間違いなく聴いていてくれると実感できたからだということでした。それまでは私は家でも会社でも誰からも相手にされていませんでした。そして自分でも自分自身が嫌いでした。そんなダメ人間でも断酒会には自分の話を聴いてくれる人がいる、つまり自分の存在を認めてくれる人がいることを知り、少しずつ自分に自信を持て、自分自身を冷静に見れるようになったのだと思います。私が断酒できたのは突き詰めれば、あの人たちが話を聴いてくれたから、です。
このことに気づくといろいろなことが見えてきました。その一つは自分は話を聴いていただいたのに、自分は他の人のお話をしっかり聴かせていただいているのか、という反省です。
そしてもう一つは断酒会で何故断酒できるのかという問いに対する私なりの答えです。依存症になった原因も、依存症になったことによる心の傷も人によって様々です。だから人によって断酒の〝きっかけ〟も異なると思います。断酒会では体験談や仲間などで断酒できると言われていますが、一人ひとりを見てみると実際はもっと細かな、ある意味では些細なことをきっかけにしているのではないでしょうか。断酒会には様々な人がいて、その人たちが様々は経験や考えを語り、様々な行動をする。その一人ひとりの様々な言動が他の依存症者の回復のきっかけになる。私が話を聴いていただいたことで断酒できたように。だから断酒会で自分にあったきっかけとすぐに出会えた人はすぐに断酒できる。なかなか出会えない人はなかなか断酒できない。でも諦めずに断酒会を続けていると、いつか出会えて断酒できる。だから「酒を飲んだのが失敗ではない。自助会から離れるのが失敗なのだ」と言われる。そのように考えると、私は断酒会に誇りを持て、依存症に悩む人に自信を持って断酒会を勧めることができるようになりました。
私は断酒会のお陰で断酒でき、新しい人生を見つけて今は充実した日々を過ごしております。断酒会には大変感謝しています。だから、会員減少という課題を抱える断酒会ですが、私なりに断酒会に貢献していければと思っております。

『いやがることはしなくなったあほなおっさん』島本断酒会 男性

「お父さんやめて、やめてーや、もう酒やめてーや」と子供達の叫ぶ声を何度と聞いても酒を取りあげられて捨てられても止めることをしないあほなおっさん。一度や二度でなく何度とくり返す入退院。一滴の酒を飲まない一日がくるまで長い年月を経たあほなおっさん。初回入院は息子の車に乗せられ、何処へ行くことにも気づかずに雪の舞う岩倉病院へ。ケースワーカーさんに「依存症ですから今日今から入院」と言われるが、やらなければならない「仕事」と訳の分からないことをいい、ただ入院がいやで、まだ飲みたいから拒否するあほなおっさん。
3ヵ月の入院が始まる。家族、姉、会社の人達が見舞いに来てくれる様子を入院中の仲間に羨ましがられていた。そんな中、毎日毎日「日記」を書き続ける。今日は何月何日何曜日、晴、雨、それだけの日記。
退院後のある日、リュックを背に山へ山へと一人歩き、道に迷って突然、幻覚に襲われ訳が分からなくなった。そこで仲間に救われ再び入院。
特別室に数日間過ごしたあの惨い部屋での今までの思いを書いた。点滴1ヵ月目47本、2ヵ月目48本、3ヵ月目31本、4ヵ月目12本、退院へ。
それから外来通院、「松ヶ崎」院内例会、断酒会と出席するが、止めることをしなかったあほなおっさん。再々の入退院をくり返し、体力の衰え、何をしても根気がなく、ただ飲むことだけを続ける私でした。
とうとう、また入院が来るのですが、恥ずかしい、かっこわるい、まだ飲める…で、入院するのですが、見事に恐ろしく悪くなっていく日々が。今が分からない、自分が自分もわからない、今まで俺だけは、俺がそんなはずがない、仲間が一人去り二人亡くなって行く姿を、俺だけは大丈夫と思っていた。
まさか走り回っていた男が歩くことも出来ない。車イス。食事も一人で出来ない。箸、スプーンも口まで持って行くことが出来ない。院内の仲間に、へルパーさんに手伝ってもらい食事する。でも、どんどん悪くなっていく。家族、子供が見舞いに来てくれて枕もと耳もとで声をかけられても分からない。手を握られても分からない。それでも家族は、あくる日も、そのつぎの日も、何日も何日も来てくれ、声をはりあげ呼んでくれても反応がない。認知症になってしまった私。入院中は字も書けない、読むこと、何もかも出来ない私。主治医が、これから先の私の入院中のこと、退院について、家族が聞いても首を傾けられ、「回復は…です」という返事だったそうだ。その時の家族、子供はどんな思いだったんだろう。今は、この様に字も書くことが出来ます。ここまで元気になれたのは、あの還暦の祝いにプレゼントしてもらった自転車に乗り、気合を入れて毎日、断酒会例会に出席したおかげです。
我慢強く見守って励ましてくれた妻、子供に感謝とお礼、ありがとう、すまなかったをいいつづけた。真剣に仲間の体験談を聞き、素直に奉仕の精神、自己愛(自分を愛せない人間は他人も愛せない)を大切にして笑顔で生きて行きます。これからもよろしくお願いします。

なにわ第76号

『行動に移していくべき時期に』吹田市断酒会 男性

平成26年10月、私は新阿武山病院に入院し本日まで断酒できている自分を不思議な気持ちで見ています。思えば入院前の3年から4年は毎日毎日とにかく酒、酒の日々でした。家族や周りの人にどれだけの迷惑を掛けたか、特に家族には言葉では言い尽くせぬ程の苦労を掛けてしまいました。妻から入院しなければ離婚と宣言され、とにかく離婚したくなくて、その場が治まれば良いと思い入院いたしました。ただ私は入院することにより、3つの大きな恩を頂きました。

1 知 識

アルコール依存症の知識、これは本当に自分が何も知識が無く、酒を止められないのは自分の意思の弱さだと飲んでは後悔し、それでも飲んでしまう自分に情けなくなり死んでしまいたくなることもよく有りました。

しかし、『アルコール依存症は病気である』個人の意思の問題では無いと分かった時は、暗闇の中に一つの明かりを見た思いでした。「病気なら治るかもしれない」、今でもあの時の前が見えた時のうれしさは忘れません。

2 断酒会に出会えた事

新阿武山病院から、毎日断酒例会に出席するように指導があり、仲間と一緒に各地域の断酒例会に出席しまた、私の地元吹田市断酒会を紹介いただき、退院後入会させて頂きました。

最初から温かく迎え入れていただき、先輩方の体験談を聞き、家族会の話を聞き本当に、自分の今までしたことの罪深さで体が震えました。

もうあの惨めな悲しい時に戻りたくないとの強い思いが湧き出てきました。

断酒会は『気づきの場だ』と言われます、本当に自ら「気づく」ことが本当に大切だと思いました。

3 病気の発見

入院時の、胃カメラで胃がんを発見していただき、早期発見のおかげで、ステージ2、手術も成功しました。また、肝硬変、食道静脈瘤、喉ポリープと、手術を4回受けましたが、これも入院で見つけていただいたお陰と感謝しております。

私は今断酒出来ているうれしさでいっぱいです、お酒のない日々がこんなに充実しているとは思いませんでした。毎日感謝の日々です。

もう2度とあの惨めで、悲しい時には戻りたくないと毎日思います。

ありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いします。

『酒と私』箕面断酒会 男性

未成年の時、いたずら半分で酒を飲んだ記憶があり、テレビの影響があったと思いますが、健全な商業活動だから非難されることではないです。当時、飲酒に対して世間も甘く、周囲も穏やかな時分でした。とはいえ、わたしは酒を飲んでは冷静さを失ってものを投げたりして家の硝子を割ったり、家内に殴り掛かったりもしていました。夕食はそんな光景でしたから、当然楽しいはずの一家団らんの時でしたのに、気が狂ったとしか思えないことをやってしまいました。子供達にも怖い場面を見せて家族に迷惑をかけ苦しめました。娘は大人になってからは発作が出る様になり、クリニックへ通院していました。幼い頃の体験がこんな形で出てきて、それはわたしのせいで、申し訳なく反省しています。

今は飲酒に対しても厳しく、事故や新聞等で依存症についても、多々掲載されてますね。車の事故も起こしました。年末年始に酒を飲み過ぎて、交差点でバイクごと跳ね飛ばされて、けがはなかったんですが、警察署で怒られ相手にも迷惑をかけました。もう一件事故を起こしたようですが覚えていません。

夏休みに家族と一緒に、車で田舎へ帰った時の事です。盆踊りや夜店で皆と遊んで家でビールを飲んでいました。もようしてきて、トイレと間違えて押入れで用を足そうとしました。周りの者達が止めに入って事無きに済みました。翌日に大変怒られました。

又こんな事もありました。義母が亡くなって通夜の時、夜が長く感じて、会館の隣がコンビニでウイスキーを買って飲みました。いつの間にか寝込んで、放尿してしまいました。直に息子が下着を買い与えてくれました。次の朝目をさますと息子から大変怒られました。当然です。親せきの居るところで大恥をかかせたのですから。

妻の方もアルコールで、肝硬変で亡くしました。後日押し入れからビールの空き缶が多数出てきてビックリして処分する事になりました。

それから月日が過ぎ、わたしは長年の飲酒が禍して、遂に歩行困難になり、リハビリ科へ入院しまして、朝と午後の2回トレーニングを受け、3ヵ月で退院できました。その時は息子に、着替えなど持ってくるようにと、息子も忙しい仕事の合間に何回も来させて、用事も頼んでました。息子は気分転換にとテレビ用のカードも買い与えてくれました。

退院して家に帰ると、居間のカーペットが新しいものに取り換えてあり、不用になった家具や読み終えた本等も、きれいに処分してあり、介護用ベッドも用意してくれました。

そして、息子が見つけてくれた断酒会に入会できて、新阿武山病院へ行き通院しました。結局、主治医から入院を勧められて入りました。不安な気持ちでしたが、スタッフの方々は普通の人に接するようにしてもらい、ホッとしました。毎週アルコール基礎講座を受けて、アルコールは薬物であり、再飲酒すると以前にも増して大変な状態になると教わりました。入院して良かったと思います。知らずに飲み続けていたら今頃はどうなっていたかと考えると恐ろしいです。専門病院や自助グループも知ることができました。知ると知らないでは、大違いでした。

随分と家族を苦しめ、困難な立場へと追い込んできたわたし。そんな過去を振り返る事が出来るようになりました。

入院中と今も断酒会に通っています。父の日には娘からポロシャツをもらいました。こんな過去のわたしにも拘わらず、子供達の協力と支えで病院や先生にも恵まれ、勉強をさせてもらって、今わたしは幸せ者です。

『酒をやめれば、生き方変わっていた』大東市断酒会 男性

己の性格を考え「アメとムチ」、「北風と太陽」、どう考えても己は「ムチと北風」。トコトン追い詰め己を追い込み、当時のほんの一部ですが、書かせて頂きます。

和歌山断酒道場、朝6時20分ママチャリで走り出し山越えで国道4 2号JR紀伊由良駅へ地図の上では、北上すれば難波高島屋へと走り出し、一発目のとんでもない山越え「水越峠」へ、ひたすら登る強烈な峠越え。出てくる自責の念は、「あほちゃうか」若い兄ちゃんの青春1 8切符やったら、絵になるけど、厄年のおっさんが沸き上がってくる思いは「あほちゃうか」反省等一切無し

ひたすら登り切り、やっと水越峠の下り坂へ、今わしは酒をやめる為に四條畷断酒会、出席するぞとママチャリ走らせ、地図の上でしか見たこともない「有田川」を今、渡っている。和歌山城の横を今わしは走っている。沸き上がってくる感動、その後も紀ノ川を渡り最後の難関「孝子峠」へ、これを登り切れば、大阪平野。出てくる思いは「あほちゃうか」。厄年のおっさんが、飯も食わんと、水だけ飲んで、やっと難波高島屋。その後も四條畷より京都平安会一日研修会、新阿武山病院院内例会、新生会病院院内例会、泉州連合一日研修会、尼崎断酒会一日研修会、大阪市断酒連合会25周年記念大会中之島公会堂。

極めつけは、奈良一日研修会。阪奈道路一本で山越え、強烈な峠越え。出てくる思いは「あほちゃうか」。パンク故障し、気持ちが切れんようにと己に言い聞かせ、やっとの思いで奈良盆地へ、やっと見えてきた会場。小学生の頃に遠足で来た若草山が目の前に飛び込んだ瞬間に、その後断酒会をやめる出来事と遭遇。

その後、一人断酒会を四條畷で貫き通し、2 3年間断酒会を離れておりましたが、縁あって昨秋に再入会となりました。

今、社会復帰2 7年となりました。修行生2 3名己一人裏山のほったて小屋に立てこもり、真冬の白崎海岸。暖房一切無しの午前1時、目覚まし時計なしでガバッと起き上がり、真っ暗な食堂で、一人座禅。出てくる思いは「寒い」暖房一切無しで、出てくる自責の念は『あほちゃうか』プロの坊さんでもないのにド素人の己が。しかし、それ以上に『己のやっている修行はプロの坊さんもまねできん』と傲ごうまん慢な己は傲慢な修行となり、己を奮い立たせた。午前3時より真冬の白崎海岸、山道を外灯なしの山道を己の肉体と精神を追い込み追い詰め出てくる思いは『寒い、あほちゃうか』修行生22名は、布団に入って寝てるんやで、と己の傲慢なアル中を振るい立たせた。一日の修行が終わり裏山のほったて小屋へ一人18時30分睡眠。布団に入れば、ものの2分で熟睡。体が疲れ切っている為、翌午前1時目覚まし時計なしで、気合満点で起き上がり己の修行は『プロの坊さんもまねできん』と己を振るい立たせた7ヵ月間と15日でした。

大阪市断5 0周年出席も前回出席は25周年の中之島公会堂当時亡くなられました北断酒会の中島さんの印で、大阪市断酒会本部のゴム印でした。25年と4日、9129日目の出席。1/4世紀です。今回は四條畷より徒歩で5時間4分で着きました。25周年と50周年の出席印を並べて額縁に入れ、己へのオンリーワンの褒美としました。

『感謝の気持ち』東大阪断酒会 男性

私がアルコールを覚えたのは高校3年生の時です。当時中学を卒業して社会人になった友人が毎週土曜日になると誘いにきて、スナック遊びでした。最初は居酒屋へ行き、酔うと2軒目はスナック、というのがいつものパターンでした。そこで飲み友達が増え、カラオケを覚えました。その頃から度々ブラックアウトを起こしていました。土曜日だけならよかったのですが平日にも誘いにくるようになりました。二日酔いで高校へ行き、よく酒臭いと言われたのを覚えています。社会人になっても同じでした。会社でも飲み会が多く、私にとってアルコールは欠かせないものになりました。しばらくしてうつを発症し、アルコールとうつが原因で会社をよく休むようになりました。最初に勤めた会社を辞めたのもアルコールが原因でした。平成20年に専門クリニックにかかるまで部屋に閉じこもり酒を飲んでいました。

なんか飲み方がおかしいと思い、自分でインターネットで調べてひがし布施クリニックへ行きました。しかし、通院し始めてもなかなかアルコールを止めることが出来ませんでした。ちょこ飲みをし、最後には連続飲酒に入り、5回入退院を繰り返しました。金岡中央病院で2回、新生会病院で3回です。クリニックのデイケアでも7年間お世話になったにもかかわらず酒はとまりませんでした。

現在、断酒3年目になりますが、きっかけになったのは最後の入院前2ヵ月の連続飲酒でした。最初はちょっとだけと思ったビールが増えていき、部屋中飲んだ空き缶でいっぱいになり足の踏み場もなくなりました。夜中に鼻から血を出しながらコンビニにビールを買いに行ったとき、コンビニの店長が警察に電話をして警察官が部屋に来ました。根掘り葉掘り事情を聞かれ写真も撮られました。その時、とても恥ずかしい思いをしたのを思い出します。それでもアルコールを飲んでいました。そうこうしているうちに体がアルコールを受けつけなくなり、ちょうどクリニックから電話があり入院の予約を取ってもらいました。2日後、私の担当ワーカーが部屋まで迎えに来てくれました。2ヵ月間,風呂も入らず、歯も磨かず、歩けずトイレにも行けなかった汚い私に肩をかしてくれたのがそのワーカーでした。その時初めて申し訳ない気持ちと感謝の気持ちがわいてきました。これがアルコールを止めるひとつのきっかけです。もうひとつは、新生会病院入院中の担当看護師、主治医との出会いです。入院1ヵ月くらいは歩けず車椅子の生活でした。離脱症状が出たり、うつもひどくなりしんどかった私に合った薬を処方してくれました。そのおかげでだいぶん楽になりました。主治医には感謝の気持ちでいっぱいです。2ヵ月ほどして開放病棟に移りました。歩けるようになったのですがうつが完全におさまってない私に1日のスケジュールをたてるように指導してくれたのが担当看護師です。グラウンド10周するのが日課となり気分がとても楽になりました。約4ヵ月で退院が決まりましたが、その時には断酒という形で恩返ししていこうと決意できました。

現在は、クリニックに通院しながら就労継続支援B型事業所に通所し、社会復帰に向かって頑張っています。お世話になった人たちへの感謝の気持ちを忘れず酒のない人生を歩んでいきたいと思います。

『酒害体験談』河内長野市断酒会 男性

お酒が好きで、もともとお酒に強い体質に両親に産んでもらった私は、20歳になると10年間、先輩とまた仲間友人と、本当においしいお酒を飲んできました。

仕事帰りには必ず居酒屋で飲み、家に帰ると玄関には入らず、車から直接居酒屋へ行き、夜遅くまで、次の日の仕事のことも考えずに飲み続けました。しかし、30歳になったころ身体に異変がおこり朝目覚めても床から起きられない頭がボーッとして身体がだるく意欲がまったく出ないという状態になりました。医院にかかるとこれは明らかにうつ病だと診断されました。

それから30年にわたる私のうつ病との戦いが始まりました。

仕事に行けない日が続きました。行かないと同僚に迷惑をかけ、教えている子供たちに対しても申し訳ないと、どんどん追いつめられてきました。その苦しさから逃れるために私が選んだのが好きなお酒でした。学校を休むと、その罪悪感から逃れるために朝からお酒を飲みました。でも、心は穏やかにはなりません。どんどん飲み続けました。そんな日が休みのたびに続きました。

その間私の身体は悲鳴をあげつつありました。血液検査で肝数値が異常な値を示し、急性肝炎で40日間入院したこともありました。しかし内科のお医者さんはアルコールのことには一切ふれませんでした。それを良いことに退院すると同じように飲み続けました。又肝数値も悪くなり血圧も上がり、高脂血症、ひどい不整脈でしたが、それでもお酒が欲しくてたまりませんでした。

退職後は朝から晩まで飲みました。朝5時になると妻の様子をうかがいながら、そっと床を抜け出し、玄関は音がしないように静かに出て、近くのコンビニで酒を買い、二階の自分の部屋でごくごくと飲む。昼は妻が出勤するのを見て又コンビニへふらふらと、時にはころび、時には四つん這いになって、這いながらただ酒を飲みたい一心で向かいました。お酒は飲めるのですが、食欲は全く起こりません。妻には内緒のつもりで飲んでいたので、夕食だけでも食べないとばれてしまうと思って無理をすると吐いてしまいました。妻も当然気づいていたのだろうと思います。そんな生活を続けていくと私の小遣いもすぐ底をつきます。でも何とかお酒が欲しいと、生活費にも手をつけました。3人の子供たちのお金にも手を付けました。財布からお金をぬきました。でもある日どうしてもお金がない時、子供の1円貯金に手を付けました。酔った頭で1円を220枚、手に握りしめて酒屋へ行き、ワンカップを一つ買い、店を出るとすぐ飲みました。今から考えると、なんとみじめな自分だったなと思われてなりません。酒の地獄にはまり込んでしまっていました。その時も苦しいうつ病は良くなっていませんでした。そんな生活に耐えられなかった家族は、私に病院に入院・治療して、元のお父さんに戻ってほしいと泣きつきました。私も自分に限界を感じていましたし、このままでは家族が崩壊してしまうと思い、それだけは避けなくてはと入院を受け入れました。そして一昨年の8月21日入院、一クール3ヵ月を病院ですごしました.。その間アルコール依存症の勉強、今までの自分に対する反省と、これからの自分には困難なことかもしれないけれど、生涯断酒を続けることを決意し、11月16日退院しました。

それから2年近く完全に酒をやめています。その為には、地元の断酒会例会に参加、新生会病院の火曜・金曜日の院内例会にも休まず、いろんな勉強会研修会にも積極的に参加活動しています。

この第二の人生を充実したものに出来ればよいと思います。今現在は、うつ病も癒され、とても充実した生きがいのある毎日を送っています。

『私と家内と断酒会』堺市金岡断酒会 男性

私の家内は登志と申しますが、私は登志さんと呼んでいます、先日の会話を少し紹介させていただきます。(登志さん、もう6時やから断酒会に行ってくるわ)(あーた、今日はどこ行くの)(今日は金曜日やから、金岡断酒会に行ってくるわ)(毎日よーやるねー)(おかげさんで、朝はようから仕事して、夕方には断酒会にも行けるし、体も調子えーわー)登志さん日く、(だれのお陰でそんなに元気になったんでしょうね)これ以上、私は何も言えません。

中小企業の親方の私ですが、1年半前は、経営の立場からくるストレスで、連続飲酒、暴言、家の中であばれては卓ちゃぶだい袱台返しをするは、さらに我が娘が警察に電話するは、また酔った勢いで我が息子と喧嘩をする。出張先では、大量飲酒によるブラックアウトで高額請求されるは、本当にいろいろな事がありました。見るに見かねた登志さんと我が娘は、堺市北区の保健センターに相談を持ちかけその結果、金岡中央病院を紹介していただきました。

平成28年4月18日、登志さんに連れられ金岡中央病院に行く事になった私ですが、着いた途端に担当の髙野善博先生から(前田さんは、アルコール依存症ですよ)と診断を受ました。なんの用意もしていませんでしたが、その場で入院の手続きが始まり、その日から入院生活が始まりました。

私の人生で3度目の入院です。過去の2回は鼠径ヘルニアでした。入院直後は、手の震え、睡眠中の心臓の動悸、寝汗などの約10日の闘いで、やっと離脱症状から解放されました。

同年5月の半ばに髙野先生から(前田さん、そろそろ断酒会に行ってみたらどうですか)とご指導を受け、髙野先生に金岡断酒会の森田会長宛に紹介状を書いて頂き、断酒会に参加する事となりました。その後、同年7月18日病院を退院し、そして同時に、私の断酒会回りが始じまったのですが、日が経つにつれ、次第に先輩や仲間が増えている事を、実感することができました。

お酒を止めて、約1年数ヵ月になろうとしていますが、私にはまだ飲酒欲求があります。朝起きて東向きの小さな窓を開けて、今日一日一生懸命仕事をして断酒会に参加した後、お酒を飲んだらどんだけ美う味まいやろうと考えるのですが、その時点で一日断酒のスイッチをいれます。(今日だけ飲まんとこう、飲むのは一晩寝て明日にしょう)と心のなかで叫ぶのです。

昨年までの私は、今日まで飲もう、止めるのは明日にしようの明日から断酒でしたので止められるわけがありません、登志さんに言ったものでした。(あと5百円ください。これで止めます。明日から飲みません)今から思うと恥ずかしい事でした。

私には、これから半年1年と絶対に断酒をする約束はできません。何せ人間ですから、38年間飲み続けていたのですから、しかし一日断酒と云う言葉が心の中の霞の中からやっと見えて来た様な気がする今日この頃です。、飲んでしまうと元の木阿弥に成ってしまうことは充分認識しています。

私は最近、中国語のレッスンを始めました。日々の積み重ねは一日断酒と同じだと考えます。

今日からも金岡断酒会と堺連合の一員として精進して参ります。

『断酒が続いて思うこと』泉佐野市断酒会 男性

子供の頃から、なぜだか知らないけど生きづらい。なんでこんなに身内の顔色をうかがって生きなくてはならないんだろう? 家族団らんの中で、お笑い番組を見ていてもなぜかしらついつい両親の顔色を伺っては、「この人たち本気で笑い転げているのかな、本気で楽しいのかな?」そんな子供時代でした。

やがて高校を卒業するも私には、将来何に成りたいというビジョンもないまま、進学をあきらめ、父親に「仕事に就きたい」と言い、父親の仕事の関連会社に就職をしました。

しかし自分にとって職場の人間関係は難しく、上手に生きられないもどかしさを解消するアイテムが酒でした。父は6人兄弟の長男で、親類縁者と言えば大酒飲みの多い家系で、私自身も小さい子供の頃から、しっかりと酒に親しむ自分に成っていきました。

20代を、フリーターをして、金がたまるとバイクに寝袋など生活道具を積み込んでふらりと日本中を旅してまわる。その日暮らしの連続。そんな生き方もやがて終わりが来て、警察とトラブルを起こして裁判ざたに成り、父に散々な迷惑をかけてしまいました。最後まで裁判に付き合ってくれた父への感謝と反省から真人間に成ろうと職に就き、縁あってある女性と結婚出来て、子供も2人授かることができました。

友人との飲み会を終わって帰ってきても悪口とも嫉妬とも言えん愚痴を言っては散々女房にいやな思いをさせてしまいました。飲んだら子供より子供っぽい、やたらハイテンションになっては家族に呆れられる事もたびたびありました。

運命が変わったのは「2000年・9月・工場閉鎖・従業員全員解雇」が決まってからです。同僚たちは早々に転職先を決めて職場を去っていき、私は自分の能力の程も知らず、自分からしたらレベルの高い職場ばかりを転々とする様な事を繰り返して行きました。そこへ、それまでいろんな面で我が家を支援してくれた妻の実家と酒の上で喧嘩をしてしまい、結果我が家は生活に困窮するような有り様に成りました。一番の被害者は子供たちでした。学費も払えず、学校に持っていく文房具や衣服までクラスメートに譲ってもらうようになりました。そんな状態でも酒を飲むためだったらどんな手段も使いました。子供の貯金箱を底を抜いてワンカップを買いに行く、酒だけでなく睡眠薬も併用する、全ては辛い現実から逃れるための手段でした。そして勢いで離婚をし、家族は去って行きました。一人ぼっちの自分が考えたことは悲しさよりも、「これで又酒が飲める。今度は誰に責められることなく好きなだけ酒が飲める」ただそれだけでした。

食事を取らず酒ばかり飲む習慣に成りました。あっという間に連続飲酒が始まり、アルコールの切れ目が嫌で町内を24時間酒を求めてグルグルとサーキットするようになりました。年末には黄だんが出て顔は真黄色、足元はふら付き、言葉はろれつが回らなくなり、正にアル中そのものでした。

やっとのことで専門病院にたどり着きましたが、結局3度の入退院を繰り返し今に至っています。

アルコールを断酒会の仲間に止めて頂いているこの数年の間、肉親を2人なくし、老いた母親をようやく説得して老人ホームに入所させることができ、おかげさまで飲酒欲求に駆られることなく日々無事に過ごさせて頂いています。生涯断酒はまだまだ先のことになりますが頑張りたいと思います。

『私の酒害体験』大阪市東成断酒会 男性

私は平成13年7月9日にクリニックに母と姉の3人でいきましたクリニックのスタッフが笑顔で出迎えて下さったのが今も印象に残っています。

最初来るときアルコール専門の外来と聞いていたので、酔っ払いがわめき散らして恐ろしいところかなと思ってましたが、全然そんなところでは無かった。普通の病院とか医院と変わらなかった、皆おとなしく和やかに仲良く話しておられる方も居て、雰囲気も良い所だと、安心しました。診察で両手を広げて1枚の紙を手のひらに置かれて、脳が震えてると言われたそれが初診だった。それから毎日通院、抗酒剤、点滴、院内プログラム、自助グループ等の参加、その結果あんなに止まらなかった酒が止まった。不思議と言うか酒を飲むのが止まってる。

私は平成7年44歳の時妻と別れてからもうどうでもいいやと7月に会社を辞めて、退職金と失業保険で、酒飲み生活に成って行った。翌年8月4日、栄養失調、黄だん、腹水で南港病院へ入院1月半で良くなり主治医の先生から二度と酒はのまない様に、それと肉体労働は止めなさいと言われた、肉体労働をするとつい酒に走ってしまうからだ。

このまま飲みつづけると肝硬変、肝臓がんに成ってしまうと言われたが酒の魔力に負けて6月の暑い日にビールを飲んで又酒飲み生活、2ヵ月も持たない、もう働こうとする気力を無くしていた自分が有った退職金で生活をつないでいたが、お金も底をつき働き始めるが2ヵ月と持たない、酒を手放せない自分が居るから働けない、家のローンが払えず、家と土地を差し押さえられる前に手放し、東成で一人で住んでる母の元に救いを求めるように引っ越し酒の為に家も土地も金も無くなり天国から地獄だった。

でもこれで終わりでは無かった、今までよりももっと酷い状態がやってくるのだった、母の元で心機一転して母の知り合いの紹介で働く、でも酒は止まらかった。家では何時も隠れのみ仕事は4日行っては3日休みだったので休みの日は酒を飲んでは寝るという生活。仕事に行った日は時々夜中にこむら返りになり、寝られず恐ろしくなる事もしばしば有り酒で体が蝕まれていくのが分かりつつ酒は止められなかった。平成12年4月23日仕事が休みの日、朝1杯の酎ハイを飲んだらゲボゲボと血を吐き止まらず救急車で日赤へ。

胃静脈瘤破裂、脾臓摘出、肋骨に沿って山のように切開し6時間余りの大手術7対3でダメかもしれない、良くて5分5分後は本人の生命力次第、助かっても脳がやられてるかもしれないから覚悟して下さいと医師から言われたそうだった、でも幸い手術は成功し脳にも異常は無かった、10日間ぐらい飲まず食わずで体はチューブだらけ半月ぐらいで夜寝るときになったら痛みとの戦いだった、これで二度とは酒はのめない、いや絶対止めようと固く誓う。でも又してもダメだった。

仕事に復帰したが酒は止まらかった。8月の暑い日凄く飲酒要求が出てきて、負けてしまった、完全に酒にコントロールされてしまった、この一杯飲んだら自分は変に成って死んでしまうかと思いつつ、こわごわたまらず飲んでしまった、でも何とか成った飲んでも大丈夫やと心に出てきた。それから又元の酒人生、母ともよくケンカした、そののたびに公園や神社、ビジネスホテルへ泊まってズーッと酒を飲む。平成13年4月頃から仕事に行かなくなり、1日中寝ても覚めても飲みつづけ止めようと思っても止めれなかった、連続飲酒とブラックアウトによくなり体は生傷が絶えなかった、お金は無いし母の財布から盗み取りして酒を飲んでしまう。もうどうにもならなかった、この先死ぬまで飲み続けるのか、狂ってしまうまで飲みつづける瀬戸際にクリニックに繋がった。

東布施クリニックに通院し始めて16年東成断酒会に繋がって15年今まで一滴も飲まずに来れました。大阪市断酒連合会50周年そんな中7月に断酒15年の表彰を頂き、良く生きて来れたなと思うのが実感です、これも東布施クリニックの辻本先生スタッフの皆さん、断酒会の仲間の皆さんの温かい支えがあったからと思います感謝いたします。

断酒のおかげで、亡き母の介護も出来、亡くなった時は見送ることも出来ました。おかげで母親も安心して天国に行ったと思います。

今日1日を生きこの今を楽しむ生きる喜び。

い き い そ が ず に

はじめに

日本での自殺者数は平成10年より14年連続して3万人を超えています。平成10年に前年より8千人を超える増加となり、その後高い数字に留まっています。近年、自殺者数は交通事故死者数の7倍近い人数となっており、大きな問題となっています。うつ病・家族の不和・負債。身体疾患・生活苦・職場の人間関係・職場環境の変化・失業・事業不振・過労が自殺の要因と言われています。
アルコール問題はこのような要因と絡み合っており、アルコール依存症者は自殺のハイリスクグループと言われています。大阪府の補助を受け、大阪府断酒会は平成21年度からアルコール依存症者の自殺予防対策事業を展開しています。一瞬の激情だけではなく、将来への絶望や孤立感が、自ら命を絶つ思いを募らせるようです。
平成22年度に全会員を対象に自殺に関わるアンケート調査を実施しました。アンケートで自殺しようと考えた事がある、自殺を試みた事があると回答され、インタビューに応じても良いと答えた方々の中から、ほぼ無作為に、手記原稿をお願いしました。
会員、家族20人の手記が、お読み頂く皆さんが生きて行く上で、少しでも力になればと願っています。

生き続ける            (52才 男性)

私は、ある知的障害者施設で働いておりましたが、ストレス等が原因で休職する事になり、その休職中に酒に溺れて行きました。
7年程止めていた酒ですが、只1本の缶チューハイが翌日には、自分で朝から買いに走り、2本、3本と増え、1週間もしない内に、一升パックを1日で飲む様に急激に変化していったのです。飲み始めの時は「自分の金で飲んで何が悪い!」、そんな思いでおりました。
友人、知人にそのうち借金までして飲む様になり、どっぷりと酒に浸った生活をする有様でした。でも、罪悪感は当初はなく、自殺願望が湧き出して来たのは2ヶ月程してからでした。3日飲み続けると最後、4日目には酒も入らなくなり、しらふに戻った時です。
「一日も早く仕事に戻らなくてはならないのに、何してるんだ。職場の皆に迷惑かけ、自分は何を考えてるんだ」。そして、次に私を襲って来たのが、「死んだ方がましだ、死ぬしかない」という強迫観念でした。
でも、そんな自分が嫌で、また酒を飲み続ける日々・・・。そして、それに比例して、日々増していく自殺願望・・・。 そしてついに、「死のう! 睡眠薬を飲んで死んでしまおう、それですべて丸く納まる。自分もらくになる。酒からも逃げられる」
焼酎のグラスに、睡眠薬を落としこみ、そのまま一息に飲み干しました。その時は、死への恐怖もなく、どこかでホッとしている自分がいました。でも死ぬ事は出来ませんでした。3日目の朝、目が覚めて、生きていると思った時、己の愚かさ、酒の怖さを思い知らされ、酒の臭いをさせたまま、主治医の所に助けを求め駆け込みました。そして、専門病院に即、入院し、その中で断酒会の事を知り「そこでしか酒をやめていく道はない!」と思わされました。この5月に正式入会させて頂き、今は毎日の様に例会回りをしております。そして、その例会で先輩方々の語られる酒害体験を聴かせて頂き、自分も又、語らせて頂き、酒の怖さを再認識させて頂いております。今は、断酒会に入会して、本当に良かった・・とつくづく思わされております。
これからも、一日一日を大切にし、断酒生活を継続していこうと強く思っております。

自死遺児からアル中へ       (64才 男性)

私にとってこの体験談を書く事は大変苦しい作業です。
小学校6年生の時、父は高槻の天王山の山中にて自殺をしました。犬が山中より父の手首を噛み切り里へ降りてきたのを地元の人が見つけ山中を捜索し遺体を発見して下さったとの事です。身元確認に行った次兄より聞きました。その当時の話を聞いたのは私が49歳の時です。我が家では互いにその事に触れずに来ましたが。東京から次兄が来たとき私の顔を見て「お前さん幾つになった」と聞き私が歳を言うと、お前さんもその歳(父の享年47歳)を過ぎたという事を感慨深げに想った感じで、父の遺体発見時などを教えてくれました。ある程度の事は思っておりましたが、父のその事に関してはその時一回だけ姉と共に聞かせてもらいました。
一番苦しい思いをしたのはその損傷した遺体を確認した当時高校生だった次兄だと思います。父の死後母と4人の兄弟は、次兄は東京、母と長兄は名古屋、姉と私は大阪の伯母に引き取られました。
伯母は中学校の教師をしており、妹の子供という事で大変な思いで私達を育ててくれたと思います。私達自身も伯母に育てて貰っているという事で互いに遠慮があった様に思われます。子供から大人になる過程には何度かの反抗期を繰り返しながら大人になって行くそうですが、私には思い当たりません。姉は勉強に頑張り学年で一番二番という優等生を目指しましたが、わたしはクラウン(道化師)というか、明るく振舞っておりました。夜自分の部屋に入ると、父はまだ生きている、何年かすると会える様な気がして空想の世界におり寝付けず、よく「子供が何時まで起きているのか」と伯母に怒られました。
高校を卒業させてもらい仕事に就きました。初めての給料を貰った時、生活費に幾ら入れたらと相談しました。伯母は自分の為に使いなさい、私の将来の為にと言ってくれました。
私にとっては大きな小遣いとなり、一人で大人になった様な気持ちで当たり前の様な顔をして、18歳ながらお酒の世界へ入って行きました。自分では気付きませんでしたが、不眠だった私にとって睡眠薬の様なものだったと思います。
自分のお金の使い方、飲み方が世間の人々と違う、おかしいと気付いたのは22、3歳の頃で、ようやく伯母が自分の為にお金を使えと言ってくれた事が分かりました。
夜間の学校へ通いだしましたが、勉強嫌いの私にはとても皆に付いていけませんでした。時間まで家に帰るわけにはいきません、結局は馴染みの飲み屋が一軒増えたという事となりました。
そんな時名古屋の長兄よりの養子話、行き当たりばったりに養子となり結婚、今思うと相手方に大変申し訳なく思います。やはり酒が大きな問題で離婚となり、大阪へ戻りました。
調理の仕事に就きました、私には大変都合のよい仕事でした。29歳の時身体を壊し入退院の繰り返しの生活が始まり、最後にはアルコール専門病院へ入院、その間に父と同じ事(自殺未遂)を3回繰り返しました、まだ34、5歳の頃です。やはり父の死に様が浮かび、どうせ親の子や、同じようになると自分自身思い込んでおりました。精神病院退院後、断酒会にも正式に入会しました。叔母や母の援助で一年間仕事に就かず、病院例会、断酒会と走り回り、研修会へも参加させてもらいました。一年後再就職し、その後も断酒会へ参加しながら仕事を続けました。体験談を語り続ける中で何年かすると自分自身が判って来るようになってきます。その中でわだかまって来る、腹の中に溜まって来るものが有りました。それは父の死に様でした。断酒会に入って10年過ぎた頃、京都の研修会で本当の重い(父のこと)を語るというよりぶつけました、その体験を語った事で自分の断酒が正直に言って楽になった気持ちがします。それまでうわべだけの体験談を話す自分に悩んでおりました。先輩、仲間達は手を強く握り締め、うなずきながら私の思いを受け止めて下さいました。温かい目で見守って下さった事に感謝しております。今、体験談を書いていてもその時を思い起こすと涙が出てきます。その時アル中で良かった、アルコールが無かったらもっと大きな問題にぶつかって人生において挫折していた事だろうと思います。
10年位前となりますが、NHK「クローズアップ現代」で、あすなろ育英会が自死遺児への奨学金を出すだけではなく、グループミーティング、一泊研修会を通じ、彼らの心のケアをして下さる番組を見たとき涙を流しながら見ておりました。彼らの思いが少しでも軽くなったらと。
私自身は断酒会を通し自己研修作業をしております。
名古屋におりました長兄は、やはりお酒が原因で亡くなりました。東京の次兄は嫁の監督のもと、お酒を飲んでおりますが、矢張りたまらぬ気持になった時は理由をつけて外出し、一杯引っ掛けているようです。
姉はごく普通の生活で問題はありません。
私自身今も断酒継続させて頂いているのも正直に自分をさらけ出した、その私を受け止めて下さった多くの仲間のお蔭と感謝しております。

「涙」              (38才 女性)

私は、12歳頃から「そう病」と「うつ病」を繰り返し、自殺未遂を数回、19歳の時、手首を深く切り、腱をつなぐ手術をし、1週間の入院、その後1ヶ月ほど、塞いでいました。 死に切れなかった思いと「鬱」も酷くお酒は勿論、タバコさえ買いに行けません。
でも今考えると、高校生までにはビールがとても美味しく、18歳で酒屋に入社し定時で仕事が終わり毎晩のように友人、先輩達と飲み歩き、大量飲酒していました。
だから、アルコール性の「鬱」だったのかも知れません。「鬱」が酷くなると「死にたい」それしか考えられなくなります。その事を私は誰にも言えませんでした。
見かねた弟が、知人を連れてきてくれて、「精神科に行こうか」の一言で救われたのです。自殺を考えている人は、何処かで「助け」を求めているのは確かでしょう。その後、精神科に繋がり投薬、ベッドの空きを待って2ヶ月の入院。当時は抗うつ剤の点滴治療もあり、午前と午後の点滴で、3、4週間もすると起き上がり、他の患者さんとタバコを吸うまで回復していました。それから20年経ちますが、「躁鬱病」は治りません。お酒を飲み続けていたからです。最後は、薬とお酒が混ざって危険な状態になる等で、主治医に「今日からお酒を止めて下さい」、「その為には断酒会に行かなければなりませんよ」と。私は診察が終われば家に帰って飲むつもりでした。
残っているアルコール類、養命酒も流して断酒が始まります。当時は大阪市内の酒害教室を週1度通う程で、3ヶ月目には嫌な出来事もあり、飲みました。その後、断酒会につれて行ってもらい、共感し現在まで飲むことはありません。入会もしましたが、1年目は飲酒欲求がかなり強く本当に苦しい断酒でした。5月に断酒2年の表彰を頂けましたが、12日に母が自殺(飛び降り)で亡くなります。これからは両親には償いと思っていた矢先でした。母も病名は違いますが、重い精神疾患で、妄想が酷く自殺未遂も数回あったそうです。なのにその事を(健常者)の父は私と弟に電話の一本もしてくれませんでした。「もう精神科は可哀想だ」と。私は納得できません。百ヶ日が終わっても、、母が飛び降りる姿を想像すると涙が、涙が止まりません。自殺未遂者だった私が、自死遺族に・・・この苦しみも他の人には味わせたくないのです。断酒をし、抗うつ剤等を飲み休養すれば生きていて良かったと思える日々が必ず来ると私は考えます。
自殺を考える前に、身近な方に「死にたいんだ!」でも良いです。誰か一人に相談してみてください。どうかお願い致します。「涙」

感謝               (60才 女性)

幼い頃に虐待を受け、人にも言えずに、だんだん自分の心を閉ざし生きて来た私は、うつ病になり、動けなくて、食欲もなく、死ぬことばかり考えていた時に、アルコールとの出会いがありました。そのビールは、心の扉を開いてくれ、働く事も出来るようになる、こんな素晴らしい飲み物があったのかと思い、毎日、ビールを飲む、心ウキウキと生活が楽しくて、仕事が終わるのを待ちかねて飲む。そんな日々は長く続かず、会社に行けずに、辞める事になり、朝からアルコールを飲み、飲んでは寝る、目覚めれば飲む、そんな日々を繰り返して、入院する事に。何度目かの退院の時に、アルコール専門クリニックの紹介書を貰い、1ヶ月ぐらい酒びたり、手は震え、冷汗は出る、酒が切れるとどうにもならずに、酒を飲まなければ座ることも出来なくなり、紹介書がある事に気づき、小杉クリニックに行きました。
長い時間待たされて診察してもらい、アルコール依存症と言われましたが解らない、一生酒が飲めないなんて、自分で飲んでる酒や、自分で止めれる、私の友達を取らないでと、心の中で叫びながら、毎日通院が約2年、飲まないでいると身体の調子も良くなるにつれ、酒が飲みたい、一杯だけ、一杯だけでいいから飲みたいという思いが、頭の中に一杯になり、酒を飲んでしまい以前より大量に飲む、酒が切れると離脱で苦しむ、苦しいから酒を飲む、もう自分ではどうにもならず、死のうと思いながら酒を飲み、自殺するのですが未遂で終わり、また同じことを、酒を飲んではやってしまう。アルコールの魅力には勝てないし、生きていくのも辛い、身の置場もない、そんなときに断酒会へ入会しましたが、酒は止まらず、死にたい気持ちは消えず、苦しみました。死ねないのなら何とかしたい、そんな思いで暮らす毎日、ある日アルコール依存症者の作業所があるから、行ってみませんかと、声をかけていただき、通所する。朝のミーティングに昼のミーティング、夜は断酒会へと通う。そんな日々が1年、また1年と経つうちに、うつ病も出なくなり、酒も止まり笑う事も出来るようになりました。おまけに、今は仕事も出来るようになり、良き断友、良き仲間に囲まれて、犬と散歩しながら、死ななくて良かったと思っています。
断友や仲間に「ありがとう」と、心の中で感謝しながら、生きています。

終着駅は始発駅          (47才 男性)

47年前、両親が自分を産んだとき、おそらく「幸せな人生を送ってほしい」と思い、産んだと思います。ところが、実際は20才を過ぎてからアルコール依存になり入退院の繰り返し、挙句の果てには自殺未遂も4回経験というありさまでした。そして病院、断酒会でもはかばかしくなく、両親はじめ周りの人にとっては、自分の最後の賭けであった和歌山断酒道場も9年いた挙句、退場という結末で、その理由も自殺未遂を起こすということでした。 その何ヶ月か前、どうにか故郷へ帰ることができそうだという話になったのですが、結局ご破算になり、道場での生活も身が入らなく、抜け殻同然、そこへきて些細なことが理由で道場生の一部の人と仲たがいになり、道場での当番も外されるこことなり、今までの道場での生活がすべてむなしさに変わり、「もう俺は終わりだ」と思い、自殺を決行しようとして、道場の倉庫から作業用のロープを持ち出し、敷地のはずれの桜の樹へ仕掛けをして、ロープへ首を入れ、あとは座り込んだ瞬間に首が圧迫され死に至る、といったところで餌付けをして可愛がっていたネコが駆けてきて鳴かれ、そこで我に返って自殺を決行するのは止めたということでした。
今振り返ると、本当に死ぬ気があったのか今一つ不明で、もし死ぬ気があったとしても、おそらく帰ることを許可してくれなかった両親や、自分に冷遇をした道場生へのあてつけという気持ちの方が大きかったのでは、と思われる気がします。
結局、そのまま新生会病院へ入院、道場もそのまま退場、故郷へ帰る話どころではなく道場長や和気大先生からも、「お父さんやお母さんが可哀想だからこっちで生活することを考えろ」と言われました。当時の自分は、かなり荒んだ感情が残っており、「一番かわいそうなのは自分なのに、何で俺ばかり・・・」という気持ちでした。
結局、新生会病院退院後は現在の地に住むことになり4年以上が経とうとしています。
道場で生活している時に自分のことを心配してくれ、1ヶ月に1度便りをくれた母親からは1通の便りもない状態ですが、不思議と恨みや憎しみの気持ちは軽減されています。おそらく今になって、「俺が可哀想だったら、自分の酒害で長年苦しんだ両親や周りの人は可哀想では済まない」という気持ちに変わったのと、結局見知らぬ人ばかりの地で生活する酒害者の自分にとっては断酒会しか行くところが無かったのですが、毎日行けるほど、不自由はなく、周りの方とも何とかいい付き合いをさせて頂いていることだろうと思います。思い通りにならないこともあり、いいことばかりでも無いですが、今回生き残ったことをきっかけにして、自分なりにいい人生を送れれば・・・と思います。
ありがとうございました。

自殺の試み            (55才 男性)

私は、10代の頃より酒を飲んでいました。しかし20代、30代の頃の飲み方と40代、50代の飲み方は相当変わってきていました。
後半の4、50代では、仕事、親の介護、その他いろんなストレスを抱えきれなくなってきておった自分であったように思います。この10年ぐらいはやはり自転車に乗ってもこけたりしました。あの、自転車に乗った自分がもろとも倒れていく瞬間というものは、何かスローモーションでゆっくりでした。
地面に横たわっている自分は、ゆっくりとまず腕が動くかどうかを確認していました。そしておもむろに肩や頭、そして足のくるぶしなどを撫でながら、それらの部分がちゃんと繋がっているかどうかを確かめます、痛さは感じません。頬のあたりを撫でるとぬるっとします。眼鏡のガラスで顔を何回彫って彫刻したかわかりません。
仕事が終わったあと五合パックのラッパ飲み、夏場暑いとき会社を出たあと近くの自動販売機。家に帰って、ちょっと気分が高揚している時などは、電話機の前に缶ビール5、6本並べて電話帳片手に、片っ端から愚痴の電話をかけまくる。喋りまくった挙句に乾ききった喉が、どれほど缶ビールの苦さを喜んだことか。
とにかく今日一日は何とか終わった。すえた煎餅布団にごろんと横たわり、肘を立て、食道に流し込む焼酎。
心がよれよれになった時、ウィスキー角瓶の流し込み。これはまた良かった。たとえ瞬間的にであれ現実を忘れさせてくれたからウィスキーは性格によく合った。あっという間に脳髄にアルコールがスコーンと染みこみ、現実の自分から即座に解放してくれ、虚脱の空間へ自分を導いてくれた。
さて、本題の自殺欲求についてです。私の10代、20代の頃の自殺に対する欲求とそれ以降の時代の欲求は、何か本質的な中身が違ってきていたように思います。若い頃のそれは、ほんとに衝動的で、睡眠導入剤のようなものを一気に瓶ごと飲んだことがあります。
しかし、後半の4、50代ではウィスキー、ラッパ飲みで「ああ、これで俺はこの世から消え失せることが出来る。よーし、さあ流し込むぞ・・・」。経験者はご承知だと思いますが、まぶたを閉じたほんの数秒間の静かな開放の世界。単に瞬間気を失っただけか、それともほんの少々眠りの世界に入る事が出来ただけか。
目が覚めた時、じゅくじゅくの煎餅布団の上に横たわっている現実を確認し、死のうと思ったが、死ねなかった自分に対する悔しさや憐憫。
実は、断酒会の皆様はほとんどの方は、やり方、手法は別にしても、いずれにしても一度は「自殺試し」は経験の筈ではなかろうかと思います。
さて、今はなんとか大きな波もなく、断酒会に入会してなんとか無事に過ごさせていただいております。これもひとえに断酒会に参加させていただき、皆様方の酒害の体験をお聴きすることにより、また自身が思い起こし掘り起こすことにより、飲酒の欲求から遠ざかることが何とかできております。
これからも一杯の酒に手を出さない自分でありたいと願うものであります。

生きてていいんだ         (73才 女性)

いつも浮ついた生き方をしていた。夫とは同棲生活から夫21才、私18才。二畳半の小さなアパートの一室で、布団シングルを一組敷いて。小さなタンスと水屋、テレビ、ままごとのような日々で、充分幸せでした。夫の給料だけで、私は働きもしないで・・・。
その頃から私はわがままで、夫に叱られても反省するどころか反発し、自分が間違っていると分かっていても謝ることをしなかった。息子、娘を育てていても、仕事をしていても、どこか一本筋が抜けていました。心の中にはいつも不平不満が一杯で、夫にぶつけ、子供に当たり散らして最悪の状態でした。もともと夫はやさしくおとなしい人で、私のわがままに手を焼いていて、浮気もし、仕事も行き詰まり、お酒に逃げ、問題も起きています。
今だから分かるのですが、私のわがままは極度で病気ではないと。当時夫に連れられて行った精神、神経科の先生から、薬は精神安定剤を処方されました。家族だけに留まらず、ちょっとした事で、酔っ払いと喧嘩し、相手に怪我をさせたり、夫に怪我をさせたり、子供にも、しつけと言いつつ殴る蹴るの暴力をふるう私、自分の精神が壊れていくのが感じられて、とても恐ろしくて、怒りが収まると、自分を責めて落ち込む、そんな事の繰り返し、いつしか自分を消してしまいたい、死にたい、自殺しようと思うようになっていました。
小さなノートに遺書を書いて、死に場所を探して、うろうろした夜。仕事に行き詰まり、酒の量が増えていく夫。借金も出来て、家庭は嵐の真最中です。アルコール依存症と診断を下された夫と断酒会に行きました。素直な気持ちで例会に通ううちに、自分を変える事が出来るかも知れないと思いました。例会の中で自分を省みる日々が、1年2年と続くうち、心が穏やかになり、自分を認める事で生きていけそうな気がしてきました。
たくさんの人の温かい気持ちを戴いて、少しでも、自分が変わる事が出来た事を感謝して、これからの人生を大切にしたいと思います。

心の中              (49才 女性)

自覚できる飲酒欲求があった訳ではない。「まあいいか、一杯くらい」友人の誕生日会の席でのことだった。夜景の見える静かなレストランでカクテルを一杯飲んだ。罪悪感や後悔の念はこの時湧かず、その日はその一杯で止まった。
「もしかしてアル中ちゃうかも?」という思いがよぎった。この辺りがまさにアル中である。それからもしばらくは我慢することなく飲まずにいられた。次に飲んだのはそれから3ヶ月程してから。会社の上司に対する身勝手な怒りを理由に焼酎のワンカップをあおる。「こないだ大丈夫やったし」と自分に言い訳をしていた。
今度は大丈夫ではなかった。すぐに間隔は狭まり、量は増え制御不能となった。またたく間に周囲に気づかれ休職を余儀なくされる。中途半端な知識がついている故、落ち込みも大きく、酒の虜となった。
酒を買いに行く以外、外に出ることはなくなり、昼夜なくエヅいて目覚めては枕元の酒を流し込んだ。声を出して泣いていることもあったが、何で泣いているのか分らなかった。家人は何か言っていたが、そのうち何も言わなくなった。自由だと思った。気づくと床ずれが出来ていた。止めたいのか止めたくないのか解らなくなっていた。いずれにしても希望がなかった。「このまま死ぬんかなあ」、「こんなはずじゃない、こんなことしてたらアカン」、「でも死ぬしかないよなあ」、「イヤイヤそんな事考えたらアカン」、「死んだ方が周りも楽になる」等々、同じ考えがグルグル環状線の様に同じ所を繰り返し回り続ける。死ぬ方法も考えるが、結局泥酔した頭で考えつく手段は知れていたし、第一それを調べたり道具を用意するのも面倒臭かった。それより次の酒の段取りの方が大事だった。
ふと、「このままやったら死んでしまう」と思った。何故そんな発想が湧いたのかは今でも解らない。ただ何とか病院に行こうと思った。アルコール臭がすると入れてもらえないことを知っていたから、やっとの思いで一日酒を切り、這うようにして辿り着いた。病院に着いて間もなく、てんかんを起こして意識を無くした。
この後まだ性懲りもなく再飲酒するのだが、それを機会に仕方なくにではあったが、入院に同意する。しかし入院プログラムのお蔭で実際「死ぬ」という行動を起こす事はなかった。しかし現在酒を離れて1年半、思い返してみると頭の中は「死」に囚われていた。その思考自体病んでいた、と今なら理解できる。
当時、自覚はなかったが、家人からは度々「飲み過ぎだ」と言われる小言「うるさいなあ、ほっといて!」とウンザリしていた。楽しみだった飲み会が億劫にになり、晩酌ではなく自室に焼酎の紙パックを持ち込んでいた事がおかしな行動だと思いもしなかった。しかし次第に心身共に不調をきたし、不安が募っていた。酒が原因であることは解っていたが、誰にも相談できず努力はしてみるものの酒は止まらず、意思の弱い自分を責めた。いわゆる「否認」の状態が続き、10年余り経って、ようやく専門病院の門をくぐった。「すぐに入院」、「一生酒は飲めない」、「一生治らない」と宣告されたが、「そんなんムリ!」と心の中で叫び、全く受け入れられなかった。仕事を理由に入院を拒否し、名ばかりの通院。勧められた院内のミーティングやレクチャーには1度も出ず、ましてや自助会など、聞いた様な気もする、程度にしか覚えていない。2週間毎の血液検査が苦痛くらいにしか思えない「通院」だから、9ヶ月で勝手にやめてしまった。
それから1年半、仕事もできなくなり悪化の一途を辿る。自力で切ろうとするため、市バスの中で意識を失った事もあった。離脱という知識が無いため、不安・恐怖に苛まれた。勝手に止めてしまった病院に行き辛く、思い悩んで別の病院にすがりつく思いでたずねた。懲りていたので、今度は真面目に通い、プログラムも受ける。初めて「飲むと止まらない病気」と知り、自分を責めなくてよいと解って少しホッとする。
しかし、今度はタカをくくる。異常を感じて悩み出してから初めて酒が止まり、医者やケースワーカーの忠告もろくに聞かず、4ヶ月で仕事を始め。「理屈は解った」、「もう一生飲まへん」、酒が止まっている自分に酔い、毎日ウキウキだった。病院にさえ行っていれば、とまたしても自助会にはつながらず、そのうち多忙を理由に病院からも足が遠のいていった。
半ば強制的にではあるが、断酒会に足を運ぶ。体験を聴いて話して、何で酒が止まるのか?とは思っていたが、酒を止めるために自分で思いつくあらゆる手立ては使いつくしていた。疑心暗鬼なスタートではあったが通い続け、現在は止まっている。
酒が止まってやっとスタートライン。過去の事は振り返る事を避けてきたが、その重要性を今は感じている。あの時実際に自傷に至らなくてよかったと思う。
この様に自分のことを文章化させて頂く機会を与えて下さったことに感謝します。ありがとうございました。

アルチュー人生          (69才 男性)

私は四国宇和島市生まれです。昭和32年、大阪に出てきました。西宮中央卸売市場に入所しました。
4年間仕事してお金を貯め高校に行くために転職して夜間部に入りました。そして学校に通学するようになり、校内では酒は飲めません、でも仕事が終わって学校に行くようになりました。そんな時、先生に呼ばれ注意を受けました、「君達は成人でお酒は飲むなとは言いません、せめて学校に来る時は飲まないで授業を受けて下さい。その代り土曜日に私の家に来なさい」とのこと。悪ガキが集合して毎週土曜に先生の家に集まり、先生を囲んで飲み会が始まり。催しは土曜午後10時、11時ごろまで、日曜の朝帰りです。学校生活4年間、楽しい飲酒でした。
卒業して鉄工所に入社しました、職場ですぐ飲み仲間ができました。仕事が終わり、仲間と飲みに行くようになりました。三交代勤務がついた日から朝仕事が終わり帰宅したらすぐ酒を飲んで寝る、そんな日々が続く様になり、そうこうする毎日が面白くなくなり、淋しさと孤独に苦しみ悩みましたが、なかなかお酒をやめることは出来ませんでした。
そんなある日、私は仕事中職場で血を吐き病院に行きました、平成10年大道病院です。身体に異状がある、すぐ入院ですと言われ、約6ヶ月入院し、その時の私は手足の震え、下痢、言語障害、頭も狂っていた、そんな私でした。ドン底での入院生活でした。半年過ぎて退院して藤井クリニックにつながり、あなたはアルコール依存症ですと言われましたが、私は否認していました。私の毎日通院が始まります。ミーティング、断酒会、自助グループへ行きながら病院通いしながらの飲酒が続きました。
朝酒、昼酒、夜酒と自動販売機の前に立ってお酒を飲んでいました。毎日毎日お酒を飲んで平成12年連続飲酒となり、自己嫌悪に陥った、こんな自分は生きていても仕方ない、ただ死にたいと思う気持ちだけで睡眠薬30錠、ウィスキーボトル1本のみ、これで死ねると思い寝つきました。朝目めると病院のベッドの上でした、仲間に助けられました。仲間が来てくれなかったら死んでいたでしょう。
悪夢から目覚めて帰宅、自殺未遂から11年過ぎました。今は生きておれる事、感謝。毎日命を大切に断酒会の仲間の輪の中で毎日を大事に生きています。

生き残った            (54才 男性)

10年前、私は社内のホストコンピュータのアプリケーションを担当していました。連日のトラブル続きで、自分ひとりの力ではどうすることもできず、応急処置ばかりを繰り返していました。心身ともに行きづまっていました。
毎日毎朝、消えてしまいたい、早く楽になりたいと思いながら会社に出勤していました。 昨夜の酒が何も抜けておらず、ついさっき飲んだような酒臭い息、酔っ払った状態と何ら変わらない身体にブラックコーヒーを流し込み、足を引きずりながら電車に乗り込みます最寄り駅から会社まで徒歩で10分ほど、歩きながら色々な神様や仏様に祈ります。「今日こそは何もトラブルの電話がありませんように・・・、悪しきを払いて・・・、観自在菩薩・・・、天にまします・・・、」神社やお寺に宗教心をもって行ったこともないのに、一心に真剣に祈ります。車が直進してくるのに横断歩道を無理に渡り、車を急停車させたり接触したり、でも怖くて轢かれることはできませんでした。
会社では、会議に継ぐ会議で、じっくり考える余裕も時間もありませんでした。お昼時間に、食欲は無いのですが、とりあえず何か食べなければとうどん屋に行きます。5、6本うどんとアゲを飲み込み席を立ちます。「俺はいったい何をやっているんやろ、いつまでこんな生活が続くんやろ、もうダメや、もう嫌や、消えてしまいたい」と思いながら会社に戻ります。衰弱した体で仕事も手につかず、ただ就業のベルが鳴るのを待っていました。
定時となり、逃げるように会社をあとにします。いそいそと近くのコンビニに行き、『ワンカップ1・5』を4本買います。家内からの「今日は飲まんと帰ってきて」とのメールを見て、悲しくて涙が出ますが飲まずにはおられません。店頭で1本を身体に流し込みます。「今夜も深夜に会社から電話があるやろな、嫌やな、帰りたないな」と思いつつ駅まで歩きます。プラットホームのゴミ箱の前で2本身体に流し込みます。だんだん酔いが心地よくなり、自暴自棄になります。電車待ちをしながら、飛び込もうかどうしようかと考えます。「一瞬やろな、思いっきりさえすれば全てが終わる、楽になるで」と酔った頭で思い巡らせます。電車がプラットホームに入ってきて「今や」と思いますが、いつも足がすくみました。何事もないような顔をして電車に乗り込みます。駅で電車を降り、最後のワンカップを流し込んで「また、怖い夜がきたな、トラブル対応の電話に耐えられるやろか」と考えながら家路につきます。
全ての仕事を投げ出し、放棄して会社を辞める」という本来あるべき選択肢が、当時の私にはありませんでした。生と死の間で、ウロウロと堂々巡りを終わりなく繰り返していました。「仕事に耐えられなければ全てが終わる」と白黒的な考えで凝り固まっていました。毎日が、過労自殺未遂の連続だったのです。
酒が私を助けてくれたのか、飲んでいなければより良い解決ができたのか、今も判りません。ただ、生き残れた今思うことは、色々なことがありましたが、全て仕方なかったんだと思います。

体験談              (50才 男性)

昭和36年5月9日に母親が私を産んでくれました。私の母親は体が小さいのですが、大きくて元気な男の子が生まれたと、父親や今年他界しました祖母も大層喜んでくれ、母親から「私にとっても自慢の息子や」と小さい頃から幾度となく聞かせて頂いておりました。仲間の体験談の中で時々ACであったという話も聞きますが、私は幼い時から何の不自由もなく育てていただきました。その事は今でも大変感謝しております。
高校に入学した頃から父親とうまくコミュニケーションがとれず、父親から逃げたいという思いがあり地方の大学に入学させて頂きました。酒が原因での最初の失敗は大学の寮での新入生歓迎会で大量に飲酒した時でした。日本酒を大量に飲酒しブラックアウトを起こし、意識が戻ると病院のベッドの上で動けずにいました。実家から駆けつけてくれた母親が心配そうな顔で僕を見ていてくれて、何も覚えていない僕が訊ねると、深夜にタクシーと正面衝突を起こし救急車で運ばれ一命を取り留めたとの事でした。未成年であった為、家庭裁判所に送られそこで事故の相手と家裁の方に何度も頭を下げてくれました。それが僕の酒が原因で母親に頭を下げさせた最初の出来事です。
大学を出て就職すると毎晩のように外で飲み歩くようになり、あっという間に銀行やサラ金で二百数十万円の借金を作りました。一口酒を飲むともう止まらなくなり、ほとんど毎日ブラックアウトを起こし、目が覚めると裸に近い状態で公園や駅で寝ていてどこで何をしたか全く覚えがなく、その度に強烈な自責の念に駆られるもその現実から逃避するためにまた飲酒するという日々の繰り返しでした。初めて両親に借金を返済させたのがその時の二百数十万円で、それからまさしく坂道を転げ落ちるように借金を繰り返し、また飲酒運転をも繰り返すようになりました。その後、某運送会社で勤務するも飲み方が一層酷くなり、結婚するも3年足らずで離婚し結局35歳の時にサラ金・街金・闇金等々で六百数十万円の借金を作りました。「もうあかん」「もうどうしょうもなくなった」と思い会社を無断欠勤し死に場所を探しました。梅田のホテルにチェックインし大量に飲酒をしそのホテルの屋上から飛び降りようと決心を致しました。ブラックアウトを起こし意識が戻ると何日かが立っていたようで、ホテルのフロントからの電話で起こされフロントに行くと母親がそのホテルを探し出してくれて一通の手紙を預けていてくれました。部屋に戻り開封してみると中に現金が3万円と母親の見慣れた字で書かれた手紙が入っておりました。「あんたに何があったかはわからないけど、とにかく一度家に帰ってきなさい。あんたの帰る場所は光明池(実家の場所)しか無いんだから、帰っておいで。それから一緒に考えて解決すればなんとかなるから、とにかくこの手紙を読んだら帰ってきなさい。誰もあんたを怒ったり責めたりしないから安心して帰ってきなさい」と書かれていました。結局死にきれずに死ぬこともできずにまた母親に助けを求めました。いつの頃からか心のどこかで“母さんがなんとかしてくれる”と母親に依存して生きるようになっていたと思います。
しかし、それからも飲酒が原因での借金、また飲酒運転による事故・検挙を度々繰り返し、仕事も転々と変わるようになり、数年後に5度目位の大きな借金を払わせたときに母親が涙を浮かべながら私に頭を下げ「あんた、もう頼むから死んでくれへんか?」と頼まれました。「泥酔しているあんたを何度か殺そうと思ったけどあんたは私が生んだ子やからどうしても私の手で殺すことはでけへんかった。せやから誰にも見つかれへんように北海道か沖縄の山の中で首をくくって死んでくれ」と。母親がどんな気持ちで自分が生んだ子供に死んでくれと頼まなければならなかったか、何故そんな常軌を逸した状況になったか、そんな事は全く考えもしませんでした。長年の大量飲酒により様々な問題を起こしてきて、その度に母親に尻拭いをさせてきて自分は現実から逃避する人生を歩んできて、問題や現実に立ち向かう気力、もっと言えば生きる気力させも失せてきておりました。
平成19年の8月2日に会社のお金を横領し逃亡生活に入りました。もうどうなってもいい、この金がなくなったら死のうと思いひたすら飲み続けました。途中で飲み友達から睡眠薬をもらいミナミのビジネスホテルで酒と一緒に飲みました。その後の事は記憶がなく少し意識が戻った時には大阪市内の西天満警察署に保護されておりました。また死ねなかった。これからどうなるんやろ?と他人事のように思っておりました。両親が迎えにきてくれて帰りの車の中で母親はまた私の体の事ばかりを心配をしてくれていました。「なにがあったかはわからないけど、とにかく一緒に家に帰ろう」そう心配そうに優しく言ってくれる母親に申し訳ないといった感情さえなくなっておりました。岸和田警察署で取り調べの際に刑事さんから自分が逃亡している間に両親が何度も会社に謝罪に行ってくれて横領したお金を全額弁償してくれたこと、何度も警察に来て事情聴取をうけたことをしらされました。
それから間もなく母親があちこちを奔走してくれて新生会病院に入院をさせてくれました。入院当時は自分は生きる事への精も根も尽き果てており、でも入院させて頂いた自分よりも、もっと辛くて苦しくて悲しくて大変な思いをしてきたのは母親の方だと気づくのは、入院中に仲間の会の一泊研修会で母親の体験談を聞かせて頂いた時でした。
退院をさせて頂いて少しの間、お酒は止まっておりますが、相変わらず自己中心的なものの考え方は変わらず母さんに心配ばかりをかけております。しかし自分は酒を飲んだらすべての事がどないもこないもならなくなります。だから酒は飲めません。いろんな場所で色んな人に時には土下座までしてくれた母親の姿を忘れてはならないと思っております。その為にもこれからも断酒会の中で仲間の体験談を聞き自分も体験談を語り続けます。反省・感謝・報恩の気持ちを忘れずに。

すなおに生きよう         (78才 男性)

私は、今だから素直に話せるが、自ら命を絶つことは出来ないと思う。事実死ねなかった。この病院で、小杉クリニックを紹介された。アルコール依存症と診断された。これが断酒の始まりである。
この依存症と診断されるまで職業柄、酒の飲まぬ日は無く、素面の生活は無いに等しい私は不安にガタガタの身体を直す事に、今まで酒を飲むために命がけの努力をしてきた私に、先達が教えてくれた言葉は、「止めるのも命がけだよ、君はとび職だからもっと辛いよ、負けるな」、断酒会の例会の中で仕事帰り姿で参加されている姿は私には素晴らしく見えた事を思い出します。
また先達は、「ともかく1年休まず参加してみて結果は自分で決めなさい」、私にはその頃友は無く居場所すらない状態、馬鹿なことをすると家族には迷惑、本人は大道を歩けないぐらいの恥で、大変苦労したと思います。小杉クリニックに通院して3ヶ月目、だんだんと元気になってきます。仕事仲間からは手伝ってくれと言われるし、先生は、まだ仕事は早い、仕事を変えればと言われましたが、私にはこの道一本しか生きて行く道は無いゆえ、辛苦は当たり前と思い、働きに行きました。仕事場は以前と同じ、終わればご苦労さんで一杯ですが、これを横目にお疲れさん、お先にと帰る自分は淋しくもあり苦しく、ストレスは頭に円形ハゲとして現れましたが、断酒会で話す、今日一日でき、仲間に助け支えられ自分との戦いに負けず今日一日を努力して来たように思います。また仕事しながらの例会通いに息子も私の姿を見て送迎してくれるようになり、私は嬉しく思いながらも断酒継続は大変な力が要る、これだけ家族はもとより私の断酒に協力して下さる皆に感謝で一杯です。人間一人では生きられません。若い元気な内に気づいたら実行する、必ず辛抱努力の木には幸せの実が成ります、皆それぞれ生きて行く姿は異なりますが、目的は同じです。自分で作った病は自分で直す努力するのは当たり前のこと、道は開かれております。するかしないかは本人の決断であり誰も代わってはくれません、努力するのは本人自身です。断酒をしても辛苦も病気も付いて来ます、それに負けずに幸福になるのも本人家族です、喜んで頂ける方のいらっしゃる内に元気な笑顔のある人間に生まれ変わる希望を持ちたいです。色々と日本は災害に遭い大変ですが、まだ敗戦の日よりはましと思い暮らしています。暗い世の中を元気に明るく希望を持って頑張る、必ず回復する力を信じて、小杉院長の残した言葉に、原点、歩、心。 いつも話されていた、素直に生きるを肝に銘じ皆様の指導を仰ぎながら努力して行きたく思っております。

死に至る病            (67才 男性)

一瞬目の前がふっと明るく光った、何が起こったのか判らないままに、燃えている火を慌てて消していた。意識を取り戻したのは近くの病院だった。 顔面がひどく痛み、喉が渇いた。水を一晩中少しずつ飲んでいるうちに酒の酔いも覚めて、自分のした事が思い出されてきた。えらい事になった、どのように言い逃れをしようかという思いで頭の中が一杯になる。顔と手足に巻かれた包帯の下でズキズキと痛む傷の不安で、死のうと思った心とは裏腹に、これからどう生きて行くのかと不安になっていた。自殺のやりそこないと、気づかれている事実からは、逃れられない。そんな自分に付き添っている妻が、「警察やら消防署の事情聴取が来たら事故やと言うときや」の一言に救われて、事故にすることでゴマカスことにした。遺書の代わりに「さらば」と書いたメモを警察が見つけたが、とくに詮索される事もなかったと妻が言ったので、ガス漏れに気づかずタバコに火をつけた為に爆発したと、間抜けな事故にする事で済ませることにした。
思えば18歳で高校を卒業した時から自分の将来に夢も希望も失っていた自分、大学に行く気もなく、担任の教師の仕事を片付けてやるような気持で就職、そんな仕事に生き甲斐があるわけも無く、若くして酒の酔いの中で過去の思い出に耽り、またそれを忘れたいために酒に溺れていきました。そんな日々に、自分は40歳まで生きたくないと思っていたせいもあり、毎日が殆ど二日酔い、給料だけでは足りないので母親から小遣いをもらって仕事に行く情けない自分を、心では責めながらどうすることも出来ないままに、ひょうきん者の一面に死ぬ理由を捜している自分を隠して生きていた。キエルケゴールの「死に至る病」や太宰治の「人間失格」を読みながらも、酒で酔う事で生きてきて、妻と出会うことで希望を見出す事が出来たように思えたのですが、その時にはもうすでに私の心身は、アルコールに侵されていたようでした。もともと仕事に情熱がある訳でもなく、妻に請われるままに妻の実家の運送業の運転手に仕事を変えて、妻子の為に、マイホーム実現の為に休日も返上して働きましたが、酒による人格の崩壊が自分の起こす事件や事故で進んでいきました。飲酒運転の日々に、事故を起こしても懲りない酒、運転免許の取り消しは必然的にやって来ました。
マイホームを手に入れて僅か1年、気がつくと休みの日などは、妻子はいつも妻の実家に帰って自分は独り家で酒浸り。
その日は32歳の9月15日、敬老の日でした。妻子はいつものように朝から実家に出かけ誰もいなかった。夕方に酔いからさめて誰もいない家で独りいた。それはいつものことながら、自分の心にもうこんな生き方がいやになった。一回死んだろか、そんな気になってまた少し酒を飲んだ。一升瓶に三分の一ほど酒が残っていたの、なぜか覚えている。悲しいとか、寂しいとかではなく、空しさの他に何の感情も無く、ガス自殺をすることにした。しかし心の隅で失敗するだろう事を考えてもいた。だからその時に困らないように遺書は書かず、「さらば」と書くだけにした。準備をしてガス管を元から抜いて、元栓をひねり、シュッとガスが吹き出るのを確認して横になって5分ほどした時、友達が仕事の用事でもあって来て
話したが、あまり記憶にはない。友達は当然の様に「そんな事あかんで」と、30分ほど話して帰って行った。自分も「わかった、わかった」と言うしかなく早く帰ってほしいだけだった。早くしないと妻達が帰ってくる、急いでガスの元栓をひねる。友達と話している間に飲んだ酒でかなり酔っていた、いつもならパンツ1枚で、酒で酔い潰れている筈が、死ぬからと着たTシャツとズボンのお蔭で全身火傷で死ぬところを免れたという事だった。死にそこないの入院ほどみじめな事はない、見舞客も無く、何の慰めも励ましも無く1ヶ月、退院した日は独り祝い酒で泥酔していました。
2回目の免許取り消しを食らった時には、もう死ぬ勇気も気力も失せていました。酒を止めるための精神病院入院も、拒むことも出来ず言われるままに仕方なく、それでも酒だけは止める気になれず再飲酒。2回目の入院は死ぬ寸前で担ぎ込まれてその時の記憶もない始末でした。
死ねないなら生きるしかないと開き直って断酒を決意してから30年が来ようとしています。生きる事に消極的だった自分が「しぶとく生きたろ」と、思うようになったのは、多くの仲間が死にたくないのに死んでいった姿を見たからに違いないと思います。「死にとおないけど、死ななしゃあない」、こんな事にならない為に仲間と共に寄り添って生きていきたいと思います。

六道から断酒道          (70才 男性)

己の飲酒が、自分自身を失い自己中心的故、家族の苦しみを感じ取れなかった日々。
妻が自分の酒を止めさせて下さいと、お百度を踏み、ご祈祷してもらっていた事も知らず飲酒を続け、飲酒事故を起こし右足複雑骨折。その時はもう肝臓、糖尿も相当悪く、医師からは「義足を覚悟しといてくれ、アル中や、ここを退院したら専門の病院に入院させなさい」と聞かされた妻はショックを受け、禁断症状の私から「俺がこんな足でなかったら、おのれみたいな女叩き殺してやる」と暴言を吐かれ、義母からも非難され、脳貧血を起こし、これ以上看病し続ける事が出来ない。もうこんな男と離婚しようと思い鹿児島の実家に帰ったが、99歳の祖母を看病している母の姿を見ていると、自分自身の胸が締めつけられつつも、これから先の辛さ、自分自身の弱さ、先の絶望感に苦しみ、気づいた時は、目の前に列車が軋みながら止まりました。いつの間にか枕崎線の線路を死にたいとヒールの踵を砂利に咬まれながら歩いていたのでした。死ぬ事も、離婚する事も出来そうにないし、どんな辛い事があっても我慢しなければと、心に言い聞かせて帰って来たそうです。
しかし、退院した私は日本酒は米だからと、ビールを飲みだし、それがウィスキーの水割りに変わり、ストレートに変わり、飲む物が無くなると味醂まで飲み、暴言暴力がいっそうひどくなり、身体中が震えながら狂ったように「金を出せ。金を出せ」と迫り、出さないと暴力を振るっていました。妻は、これ以上病気を進行させたくない一心で、狂ったようにウィスキーを捜しては捨てていました。私は「おのれは働きもせんと俺が働いた金を捨てるんか」と言って、殴る、蹴る、子供が止めにはいると子供にも暴力をふるい、妻と子供が素足で逃げて行くと、帰って来るなとばかり石を投げつけていました。飲んでは寝、飲んでは寝の状態になって来ました、その頃は妻も精神的に参っていて500円玉ぐらいの円形脱毛症が「出ては消え、出ては消え」していました。
ある時、人生が嫌になってか、発作的に「あんた殺して、うちも死ぬ」と包丁を突き付けてきました。押し入れのふすままで詰め寄られたとき。寝ていると思っていた子供が「お母さん何するんよう」と言って包丁をもぎ取ろうとした時、妻は「こんなお父さん、お父さんなんかじゃないから殺してお母さんも死ぬ」と叫んでいました。「お母さん、死ぬぐらいだったらおばあちゃん所に行こう」と聞こえた時、妻は目が覚めたような顔の後、泣き崩れていました。私は「はぁ助かった」、こいつ狂っているとしか取れませんでした。
あくる日、子供は学校へ、私は酒を求めに外出して、家に帰ると、明かりも無く、ガスの吹き出す音がし、妻はタンスにもたれかかり座り込んでいました。子供の前で一人しかいない父を殺そうという姿を見せてしまい、その罪に苦しみ、一人で死のうとしていました。
アルコール専門病院入院中の時、ある日、外泊で自宅に帰った時、妻と息子が楽しそうに食事をとっていました。その光景を見て「もうこの家には、俺のいる場所もないなぁ」と感じました。
その次の外泊の時、「もう家庭には俺の居る場所もないし、俺は不必要や」と思いつつ家に着きました。丁度妻は買い物に行ったらしく留守で、ふとその時「俺が死んでも当分の間は生命保険、退職金で食って生けるやろ」と思い、流し台の下から出刃包丁を背中のベルトに差し込み家を飛び出しました。「どこかの玉葱小屋にでも入って死んじゃろう」。そうして当てもない方向に歩いている時、偶然にも会社の同僚に声をかけられました。話しているうちに、「何かおかしい」と感じ取られたのか「家まで送るわ」と、半ば強引に車に乗せられ家に連れて帰らされました。家に着き玄関のドアを開け中に入ると、炊事場に居た妻が「うあぁっ」と泣きながら私の首にしがみつき、泣きじゃくりました。妻は買い物から帰って来て、食事の下ごしらえをしようとした時に、包丁が一本なくなっているのに気づき、「あの人が帰って来て、酒を止められない自分に苦しみ、死のうと持ち出したのでは」と。そう思うと、いてもたってもいられず、警察以外の気づいた所全部に電話したそうです。そんなところに、ひょこっと帰って来たのです。
私は、妻に首っ玉にしがみつかられ泣きじゃくられている間、「こいつ、まだ俺の事想ってくれてたんや」と感じました。妻に抱きつかれ、泣かれ、心の中から「すまん、悪かった」という気持ちが湧いてきたのです。その夜は2時頃まで、何年ぶりかの夫婦らしい会話をしました。もうほとんど忘れてしまいましたが。
今まで俺は、酒は止めたいけど止められへん、失禁もする、水便も時には垂れるどうしようもないアル中や。止められへんのや。そう思ってきた。しかし俺は、本当に酒をやめる努力をしたのか?「出来ない」ではなく、「やろう」としなかったんと違うんか?『人生逃げ場なし』という。このままでは、どうしようもない人間になってしまう。断酒できるかどうか分らんけど、とにかく自分を捨ててかかる努力をせにゃあ・・・。
振り返って思うに、人の死は、病死、事故死、自殺、他殺、に分けられるが、アル中は死に至る病気というが、「自分自身を自死に追いやり」、家族までも「自死にむかわせていた」。アルコール依存症の回復は自分自身の努力が不可欠だと気づいた時から、「例会が命」。例会に通い自分自身の洞察を続けている。

新たに生きる           (34才 男性)

幼い頃、大酒飲みで酒乱型の父は酔っ払う度に母に暴言暴力を繰り返していた。そんな家庭で育った私は、酔った父の機嫌を取る為わざとおどけてみたり、両親の夫婦喧嘩を遮る為にいたずらをして注意をこちらに向けさせるようなピエロの様な子供だったと思う。そんな子供が社会に出て大人になると、知らず知らずの内に人の顔色を伺うのが得意な大人になっていた。常に本音の自分と建前の自分が心の中に2人存在しているような感じがしていた。
職場では相手の立場を尊重しすぎて自分の意見が言えない、自分の気持ちを押し殺して相手の意見を尊重する、周りから見れば都合よく扱える便利な人間だったと思うが、私自身は本当の自分が分からない、非常に生き辛い毎日だった。
だが10代半ばで覚えた酒を飲んでいるときだけは本当の自分を表現出来るような気がして他人ともスムーズにコミュニケーションを取る事が出来、いつも気にしていた他人の顔色を覗う事もなく、人と普通に接する為には無くてはならない存在になっていた。そんな魔法の道具の様な酒も、20代の半ばで休日の朝酒を覚えてから悪魔の水に変化していった。二日酔いで仕事を欠勤する事も増え、二日酔いの苦しさを消すために迎え酒。 いつしか無断欠勤する事も増え始めた。飲めば飲むほどに壊れていく心と体。アルコール性肝炎による入院を経験してその際内科医から「このまま飲み続けるとあなたの体は2年持ちませんよ」と言われ、その場では「少しは控えよう」と思うのだが、退院して飲める体になればまた飲むの繰り返しだった。この頃から精神的な面でも変化が出始め、常に心の中で「もういなくなりたい」、「いっそ死んでしまおうか」と考えるようにもなりだした。そしてある時期を境に仕事のストレスが限界に達し、何もかもが嫌になり会社を何日も無断欠勤し、部屋に籠り酒びたりの毎日が続く。「このまま酔っ払って寝て、明日になったら死んでたらいいのに」と、体は生きているのだが頭の中は完全に死人であった。死にたいと思う気持ちが頭の中を巡るのに、まだ本能的なところに「死にたくない」と言った思いがあるのかどうかは分からないが、直接的な自傷行為を行った事も無くただただ酒で命を削り続け、「あの時内科医も言ってたようにこのまま飲み続ければそのうちに死ねるだろう」と言う様な甘ったれた考え方でいたのだが、ついには連続飲酒に体が耐え切れなくなり、アルコール専門病院に繋がる事になった。そして専門病院の初診時に主治医から言われた言葉「あなたはアルコール依存症です。それともう一つ・・・、次に飲めばあなたは間違いなく死にますよ」。
あれだけもう自分なんてどうなってもいいと思っていたが、この言葉が胸に響き入院と同時に自分の断酒が始まった。仕事、金、友人関係全てを失い、残ったのはボロボロの体だけだったが、断酒会に繋がり酒を止めていく中でまた新たな仲間が出来、その輪の中で色々な話を聞かせてもらう内に、徐々に生きる気力を取り戻す事が出来、何よりも生きる事についてもう一度一から考えさせて頂くチャンスをもらったような気がする。そしてこの一月で周りの方の支えのおかげで断酒2年を迎える事が出来た。初めての内科入院の際に言われた「あなたの命は2年持たない」と言う月日を、飲まない事によって生きることが出来ている事には本当に感謝しています。
「次に飲んだら無い命」。確かに素面で生きて行くと言う事は決して簡単なことでは無いが、この命が無ければ過去に対する償いも出来ない。せっかく頂いたこの命で新しい人生を大切な仲間と共に全力で生きていたい。その為に出来ることは一日一日飲まない日々の積み重ね。これからも初心の気持ちを忘れる事無く例会出席、一日断酒で精進して参ります。

あの日              (53才 女性)

20才の時、31才の時、死のうと思った。ひとりの部屋が、真っ暗になり青黒く光った。人間が死ぬ時は、こんな光景を見るんだと思った。お酒は入っていた。
あの時は、どうだったろう。
台所でつぶれて、つぶれて、入院し、再飲酒で又入院したあと、頑張れなくてもっとお酒に落ちていった。死にたい、死にたいと、電話の向こうの主治医に叫び続けた。電話の相手は妹だったりした。
うつで苦しいとお酒に逃げ、最後は死にたいと叫び続ける。ずっと夫と子供はその中にいた。2人には「死」というひと言が、もう何でもないもののようになっていたのかも知れない。酔ってはそう叫び続けて家を飛び出す。夫はすぐ迎えに来てくれた。仕事にも行けないし、子供は勉強も出来ない。
私も家族も追いつめられていた。
ある夜、夫と子供は「お前が出て行かないなら、俺らが出て行く」とリュックの上にシュラフを載せて、電話線を切って出て行った。台所のテーブルの片隅で飲んでいた私は、ハッとした。2人より電話線の方をにらんだ。どうしよう、うろたえて、線がどうにか繋がらないかと電話の辺りをまさぐっていた。出て行く2人には、目を向けもしなかった。そのまま前の家と隣の家のチャイムを鳴らして奥さん達に来てもらって、おろおろしながら、繋がらないかと頼んでいた。その様子があまりに不気味だったのか、すぐそのあと隣の家は引っ越しをした。電話線がどうにもならないとわかった私は、まるで命の綱でも切られてしまったかのように、茫然としてフッと以前夫が缶チューハイでほろ酔いついでに言った言葉を思い出した。
「トラックに飛び込んでくれ」
真冬だった。真っ赤なスエットの上下を着たまま家を飛び出した。軽々と走り続けた。国道はかなり遠い。でも飲んでいるから寒さも感じないし、酔いにまかせているから遠いとも感じなかった。
悲壮感は無かった。ただ、うまくひかれる事だけを真剣に考えた。母の顔も子供の顔も浮かばなかった。私は世の中でたったひとりだった。夜更けの田舎の国道は、通る車も少ない。時々トラックが通る。国道の端に背を伸ばして立ちながら、来た、と言って飛び込んだ。でも酔っているから距離感がわからない。今度こそ。2度目も失敗して。3度目はそこまで近づいて来るのを待って、1、2、3と数えて飛び込んだ。
「どうした、大丈夫か」、運転手さん達の声がした。そして、ひかれることなく警察署の取調室にいた。しばらくして夫と子供が迎えに来てくれた。ニタニタ笑いながら出て来た私を、12才の子供が「何やってんの」と怒鳴りつけた。これでは親と子が反対だと、その時思った。若い頃の様な死に対する切迫した思いはなかった。突発的に走った。
次の日から、アルコール病院の隔離病棟に入ることになるが、その時の方がむなしかった。でも私よりむなしかったのは、夫と子供ではなかったのかと、今思う。

アルコール依存症に於ける自殺と私 (60才 男性)

私が生まれたのは、山口県下関市です。地元の高校を、昭和44年に卒業しました。卒業後魚箱屋の見習いとして会社に入社、その後47年に独立、有限会社を設立、従業員十六人を抱える社長となりました。その頃の酒の飲み方はごく自然で、コミュニケーションを取る為の手段として、楽しいものでした。
会社は順調でしたが、発泡スチロールの出現で、次第に魚箱が押されるようになりました。その結果借金が嵩み、下関を逃げるように出て来る事になりました。
落ち着いた先は釜ヶ崎でした。その頃の釜ヶ崎は労働者が朝から酒を飲んだり、路上で寝ていたりしました。その様子は初めて見る光景でした。
その内に仲間が増え、一緒に飲酒をするようになりました。毎日が酒浸りの日々で、仕事にも行かず酒屋の前で、あたかも自分がボスのような存在で、黙っていても酒や金が集まるようになりました。
しかし、そんな生活も段々と嫌になり、次第に自暴自棄になり、挙句の果てに最後の一升瓶を飲み干し、ドヤの七階から飛び降りてしまいました。
気がつくと大和中央病院の一室、医師の話によると「3日間生死をさまよっていた」そうです。足にはボルトが8本入っていると知らされました。それでも退院後、酒を断つ事が出来ませんでした。
その後は酒による入退院の繰り返しで、ちょっと肝臓が良くなると、すぐに酒に走り、ひどい時には院内飲酒をしてしまいました。精神病院は、新いずみ病院、貝塚サナトリウム2回、狭山病院、汐ノ宮などの病院に入りました。
そんな時、役所のケースワーカーに「良い話があるから二時に間に合うように役所に着なさい」と言われ、行きましたが、早く着いてしまい2時までに時間があるので、酒を5合ほど飲んでしまいました。
行った先は保健所の行う酒害教室で、そこで初めて小杉先生にお会いしました。先生に一言、「これから天王寺の小杉本院にタクシーで行きなさい」と言われて行きました。
その内、酒害教室を終えた小杉先生が帰って来られ「この方は明日入院させます」と言われ、柏原の記念病院に入院しました。そこでアルコール依存症についての色々な勉強をしました。回復はあるけど完治はない恐ろしい病気です。アルコール依存症が病気と知り、ほっとしました。
病気なら治さねばいけないと思い、断酒会に入会しました。最初は各会、支部などを巡り、色々な体験談を聞き、聞くこと語ることの大切さを知り、現在に至っています。
今では会長という重責を務めさせていただき、充実した毎日を過ごさせていただいています。
一日断酒、例会出席で頑張りたいと思います。

苦しみから回復へ         (56才 女性)

私が初めて酒を飲んだのは高校2年生の時で、友達六人とスナックで飲みました。早く結婚をしたので酒は最初の頃は飲みませんでした。子供二人いるので酒は控えめにしていたのですが、子供2人が高校生の時に主人の会社が倒産してからスナックで働くようになりました、30歳の頃でした。
スナックのチーフから、店に入る時に酒を一杯飲んだら気が大きくなる、と教えられました。酒を店で飲み、また家に帰っても飲み身体がしんどい中で炊事をやり、ちょっとの隙で火が燃え移り、ようやく消し止める事ができました。
それでも酒はやめられずに1年間で4回、内科に入退院の繰り返しで2回目の時にアルコール中毒と言われました。その後新阿武山クリニックに通院するようになり、泉州病院に入院をしました。泉州病院で2回目の時に協議離婚をして、その時にケースワーカーのMさんが福祉になるように動いていただきました。外泊をして守口の太子橋今市のマッチ箱のようなマンションを借りました。狭くて1人で生活をすると圧迫感を感じて、死にたい願望が出てきて毎日死ぬことばかり考えていた。マンションが七階段だったので、そこから飛び降りようかなと思ったが、できなかった。また近くの淀川の橋から飛び込もうと思って橋まで行くけど、実行はできず行ったり帰ったりして、あの時はほんとうに苦しいでした。
その時に、前に泉州病院で一緒だったある人の事を思い出し手紙を出しました。肉体的にも精神的にも金銭的にも苦しいから、一度話を聞いて下さいと書きました。平成13年の春で天王寺で会ったのですが、その頃は市販されている薬にも走っていて苦しい中で会って、その苦しみを話しました。ある人を介して十三のNAに行きそこのリーダーのキセテイさんから大阪府こころの健康センターを紹介してもらい、岡田清先生に会って高槻の光愛病院に1ヶ月入院をしました。退院後はAAに行ったりNAに行ったり毎日がその繰り返しでしたが、太子橋今市のマッチ箱のようなマンションに帰るのがいやで岡田先生に意見書を書いてもらい大阪市住吉区の住吉大社の近くに引っ越しました。そこで知り合いの人がいちご作業所に行っているので私もいちごに行くようになりAAといちご作業所に行き断酒のリズム作りをして3年前に市営住宅が当たり、現在に至っています。
断酒会も3月に1年表彰をもらいました。今は、今までの人生で一番幸福です。これからも断酒会を大事にして毎日を楽しく頑張っていきます。

死ななくて良かった        (71才 女性)

平成6年9月に初めて小杉クリニックに受診した日、この日から私の人生は変わりました。
ここにたどり着くまでの34年間夫の酒に悩まされ続け、何度死にたいと思った事か。今思えば、結婚した時から夫の飲み方は普通ではなかったと言えるが、飲まない家族で育った私にとっては、男の人はこんなものかな、と思っていた。飲みながらの自営業のせいか、仕事も無くなり、外へ勤めに行くようになっても、どんどん飲み方はひどくなって行きました。一般病院の入退院の繰り返しで、そのたびに仕事は首になり、生活も苦しくなるばかりでした。夜は皆が寝てからお金や、ある筈の無いお酒を捜しまわり、挙句の果てに2階から飛び降り、酒を求めに行くありさまでした。こんな状態の2人の闘いが長い間続き、その繰り返しに私の精神状態は最悪になっていきました。
夫の両親を見送り、2人の子供も結婚し、夫とだけ向き合うようになって、疲れ果てた私は、自分は今すぐにでも死にたいが、夫を残して死ねないと思い、夫を道連れに死ぬ事ばかり考えるようになりました。どろどろになり寝ている夫を横目に、夫の首を絞めようか・・・、2人で船から飛び込もうか・・・、電車に飛び込もうか・・・。子供達に迷惑をかけない方法は無いだろうか、毎日頭の中はその事ばかりでした。
そんな時、私は飲んで寝ている夫を家に残したまま、ぶらぶらと。気がついたら娘の家の前にいました。「お母ちゃんもうあかんわ、疲れたわ」と言った言葉から娘は全てを察してくれました。「2日だけ待ってな、考えてみる」と言って探してくれたのが小杉クリニックでした。
今思えば、あの時本当に死ななくって良かった。今の落ち着いた生活で繰り返し思う。本当に死ななくって良かった。

「ふたつの立場」から       (69才 男性)

私は自殺を企てた事があります。幸い未遂に終わったので、こうして此処にいるのですが、あれは3回目の浜寺病院に入院する直前のことでした。
初回入院にあたって「条件が許すなら、1年間休職して断酒に専念して下さい」と主治医のアドバイスがあり、自分達で作った会社でしたので、社長にその通り申し出て1年間の休みを戴き、例会回りに専念いたしました。貧乏でしたが妻もパートで働いてそれに応えてくれました。それがあって1年間断酒出来ましたのに、それを忘れて職場復帰してからは、例会出席が減るようになり、気の緩みからか飲酒欲求に負けて、隠れ酒が始まりました。1度成功すると次の機会、又次の機会と、度々飲むようになり、最後に息子の知るところとなって、あれほど嫌だった浜寺病院へ自ら入院する始末でした。2度目の退院をしてみると、家の内の家族関係は一変していて私は、針の莚に座らせられている様な毎日でした。それに耐えて1年4ヶ月程、禁酒出来ましたが根負けして再び隠れ酒をするようになりました。苦しかったです。「もうこんな人生終わりにしよう」と思い、それまで飲み忘れたのを貯めていた睡眠薬を全部食べてしまいました。
今になって解ることですが、当時は離婚して家族全員が出て行った家に帰ったとき「家族に捨てられた」と思いましたが、本当は私のほうが家族に対しての全てを捨ててしまっていたのです。申し訳ない事をしたと今は反省しています。
今度はA子さんの話をしましょう。彼女には私と同様に3人の子供さんがいました、上の2人が男で末っ子は女でした。私と彼女が知り合ったのは、病院のデイケアでご一緒したのが始まりです。仲良しになってお互いの心通じ合うようになるまでに4、5年もかかったのではないでしょうか、私は断酒中でしたが、彼女はなかなか断酒に踏み切れず、度々飲酒して入退院を繰り返し、退院しても1、2ヶ月、長くても半年もすれば仕事に就き、ストレスから飲酒して仕事が出来なくなり、自ら辞めたり、馘になって入院するというのが、パターン化していたようです。
そして経済的に行き詰まってしまい、自殺を決行し、逝ってしまわれたのです。
私は思うのですが、逝ってしまわれたA子さんは楽になられたかも知れませんが、後に残された3人のお子さん達は、どうでしょう。私でさえトラウマになって苦しんでいるのに、特に末っ子の娘さんはお母さんが大好きでしたから、ショックから立ち直れないのではないでしょうか。どうか皆さん自殺しないで下さい。今はお先真っ暗に思えても、生きてさえいれば穏やかな晴れの日が来ます。

おわりに

私たち大阪府断酒会の会員、家族が生き続けることを止め、自ら命を絶ちたいと思った体験を、率直に表してくれました。依頼を受け、それぞれの方々が自らを振り返り、手記にして下さいました。普段の例会の語りを思い起こさせる、オーバーな表現や、隠し立ての無い体験談として、お読みいただけたと思います。
アルコール依存症者の飲酒は慢性的な自殺と言われます。酒を飲んではいけないと気づいた人、やめようと決意した人は断酒し続ける事が「生き急がない」事だと考えます。酒害の苦しみの中で自ら死を選ぶ仲間や、酒は止まっても自死に追い込まれる仲間を、多く見てきました。仲間の死に、何も出来なかった、出来ようの無いことを思い知らされて来ました。
以前に比べ、アルコール問題が直接の原因と見なされる自死は、むしろ増えてはいないと感じる方もいます。複雑になり、上手に生きていくのが簡単ではない現在の社会で、断酒例会の自らを語り、同じ場にいる方々の語りを聴く作業が、出席者の孤立感を取り除き自らを愛する力となることをしんじています。
私たち大阪府断酒会の会員、家族はアルコール問題を持つ多くの仲間と出会い、共に自らの命を生ききる心を育んでいきたいと思います。